遠い昔の記憶。
ぼんやりとしていて思い出そうにも思い出せそうで思い出せない。
まるで輪郭がはっきりとしないピントの合わないぼやけた写真のようだ。
その古ぼけた写真のような記憶はふとした瞬間に思い出すこともある。
それが良かれ悪かれ過去の記憶ではあるもののはっきりとしたものではない。
鮮明に覚えているものはほんの僅かだけ。
小さい頃に親と一緒に遊園地に行った記憶。
浜辺で貝掘りへ行ってずぶ濡れになってしまった記憶。
初めて猫を飼い始めて撫でた時の記憶。
記憶は曖昧であっても思い出として処理されるゆえに少しずつ忘れていくのかもしれない。
セピアに彩られたその古ぼけた写真はいつか静かに消えさるのだろう。
「記憶という古ぼけた写真」
空を見上げたら如何に毎日の日々が平穏かと感じた。
こうしている間も世界や知らない所で色々と起きている。
赤ちゃんが生まれたり、老衰で亡くなったり。
はたまた平々凡々に暮らしている人もいれば、色んなものから逃げている人達もいる。
毎日が同じじゃない事は面白い事なのかもしれない。
命が関わらなければ、だが。
ある人は閃いて何かを作り出したり、
ある人は利用して更に改良したりする。
循環で物事は淡々と進んでいく。
平穏無事。
そんな毎日も悪くはない。
「平穏無事」
さて、そろそろ終わりにするか。
そう言って私は縫い糸を切り片付けに入った。
今日の作業は終わり。
これで終わりにしないときりがなくなってしまう。
何故ならぬいぐるみをここ数日作り続けたからだ。
最初は一体だけのつもりだった。
気がついたら六体に増加していた。
一体その間に何があったかは記憶にない。
何故なら楽しみすぎていたからだ。
何故こんなにはまってしまったのだろうか。
始めはうちの子を作ったことが発端だ。
最初こそ生地選びから難航して悩みながら作り出したが作り始めてから段々と腕が上がっていったのか。
綺麗に作れるようになってきた。
ぬいぐるみの魔力と魅力は恐ろしい。
気がつけば増殖してしまうから今後も気をつけねば。
「ぬいぐるみの魔力」
手を取り合ったところでどうなる?
結局裏切るじゃないか
いくら手を取り合って助けましょうと綺麗事を言ったところで所詮裏切られるのでは手なんか最初から取り合わない方が幸せなのではないかね
裏切られるの上等ならば話は別かもしれないが
そもそも相手に期待する方が間違いだ
最初から期待しなければそれだけ最初から相手に対するハードルが下がるから何されようが知った事ではない
手を取り合うことは確かに大事かもしれない
だが裏切られる事も考えた上で手を取り合う事も考えなければ馬鹿を見るのは自分だ
自分があえて損をする事が美徳だと考えるならばそれは間違いだ
結局は他人にいいように使われて後は捨てられるのが大概の事である
損をするなとは言わない
だが相手が自分を利用しようとしているのであればその事を念頭に動いた方が良いだろう
それに気付けるかは自分次第かもしれないが
あえて利用されたふりをして相手を利用すると言う方法もある
生きていく上での「知恵」は大事だろう
「綺麗事」
優越感を持ったところでそれはすぐに劣等感の裏返しだと気づく。
逆に劣等感を持つと言うことは優越感に憧れてしまっているとも言える。
どちらも持たない方が幸せなんじゃないかね。
優越感も劣等感も元を辿れば同じもの。
結局は人間本来の闘争心と言う根本的意識があるからこそ起きる。
私?そんな物持ちたくないね。
そんな物持ってしまったら自分が伸びなくなるから。
自分を伸ばしたいのならば自分のペースでやるのが一番。
たとえ他人からふっかけられようがそんなものは無視するか気にしない事が一番だ。
無視やら気にしなければ相手は勝手に自滅するからである。
結局優越感とか劣等感なんてそんな物である。
他人を気にしたところで自分はどうにもならんよ。
何もしなければ変わらない。
変わりたくないのなら別にそれでも一向に構わない。
変えたいなら優越感やら劣等感に頼らず自ら行動を起こすのみである。
そうすれば大体自発的に伸びていく。
「自分の気の持ち方攻略法」