「最後に終わる時、あなたと一緒にいてもいいですか?」
そう聞かれたら私はどう答えるだろうか。
しどろもどろになりながらもぶっきらぼうにこう答えるかもしれない。
「私みたいな人間よりももっとあなたに相応しい幸せな人間と最後の時を過ごした方が幸せですよ。」
幸せの価値は人それぞれだ。
他人から押し付けられるのも生憎な事かもしれない。
その人にとっては幸せなのかもしれないが、
私にとっての幸せとは今この一瞬という瞬間を孤独に瞬く星の様に生きる事が何よりの幸福だと思うからである。
本当は最後の時位、あなたと一緒にいたかったのかもしれない。
だがそれは最早叶わないのかもしれない。
終焉の時は近くともその一瞬はとても長く感じるものだ。
最後とは、この一瞬という瞬間であり未来であり同時に現在でもあり、過去でもある。
過ぎ去っていった時は最早戻ることは叶わない。
ならば私にできる事は、今この瞬間だけでもあなたの事を思い、忘れない事だけだろう。
「終焉」
「常に最悪の状況を想定して備えなさい。」
それは生きていく上では当然の事かもしれない。
「備えあれば憂いなし」という言葉がある通りそういった事態は余りそう起こり得るものではない。
起こり得るとしたらそれは我々の想像を遥かに超えるそれ以上の事態か、それ未満の他愛のない事態かのどちらかである。
起こり得る事態の80%位は何も起こり得ないと仮定できるのであれば残り10%は起こり得たとしても大した問題にはなり得ない。
では残りの10%はどうだろうか。
最悪の事態とは常に後ろ髪を引っ張られるような思いで想定しなければ些細な事であれ簡単に脆く崩れ去るものなのかもしれない。
最悪の事態が発生した際、その人物や企業の本性が露わになる。
だが我々は知らなければならない。
それはあくまでもその人物やその企業のほんの一面に過ぎないのだと。
そして我々はその人物や企業が今できる事をできる限りしたのであればそれ以上の事を決して求めてはいけない。
それは懲罰感情というものが働くからである。
懲罰感情というものは決して良いものではない。
人間として当たり前のように起こり得る感情なのだから。
人間の本能ほど醜いものはないのかもしれない。
だが、その本能すら我々の一部であり一面なのである。
だからこそ他者の行動を戒め、認め、赦す必要がある。
現代の私達は果たして互いに信じ合え、認め合えていると言えるだろうか。
あなたは如何だろうか。
最悪とは常に最悪な事とは限らないのだから。
「ヒトとは何か」
「それ」は自分自身でも気づかないのかもしれません。
他の誰にも気づかれず、「それ」は心の奥にそっと仕舞われているだけなのかもしれません。
だけど「それ」は確かな存在として「そこ」に在るのかもしれません。
「それ」はいつ表面に出てくるのかも分かりません。
だけど恐れてはいけません。
「それ」はきっと悪い事だけとは限らないのですから。
「それ」は人によって何よりもかけがえの無い心の支えとして大切な思い出にもなり得るのですから。
だから恐れないで。
しっかりと向き合えばいつかきっと必ず良かったと思える事がありますから。
だから大丈夫。貴方は貴方自身を信じて進めばいい。
「秘密の内面」
「そこ」は「狭い」かもしれない
だけど案外「広い」のかもしれない。
それはあなたの目先の眼ではなく
心の見方次第で変わるかもしれない。
だから人によってはその広さはそれぞれ環境や状況によって常に変化する。
ものの見方や時と場合によっては一時的に狭くなったりするかもしれない。
でも常に狭いとは限らない。
今、あなたの心の部屋はどうですか?
広いですか?それとも狭いですか?
一時的に狭くなっているのであれば一度その環境から離れてみるのも一考かもしれません。
世界という部屋はとてつもなく広いのですから。
立ち直れない事もたまにはあるかもしれません。
しかしながら、人は心の部屋を持っているからこそ
時が経てばいつかは立ち直れるのです。
挫けたっていいんです。
人生とはあなた自身のとてつもなく広々とした部屋なのですから。
狭くなってもいいのです。
物事を細かく考える事も時には大事なのですから。
「心の部屋」