あじさい
ここのところ、暑すぎやしないだろうか。
あじさいのガクも、参っている。
シャキッと張っているはずが、寄せられたギャザーのようになっている。
まだ6月、夏にはゆっくり来て欲しいものである。
好き嫌い
この感想を持つということは、その対象に関心がある、ということだと思う。
それは、無関心よりもずっと良いことなのではないだろうか。
関心がなければ、対象に対する認識に変化はないからである。
ある意味、好き嫌いは紙一重なのではなかろうか。
ただ、全てのことに好き嫌いを持っていても疲れる。
ほどほどが、きっと良い。
そうすると、私が関心のなかったことに、好き嫌いを持っている人に出会うと、結構、わくわくするようになる。
なんだか、お得な気がするのである。
愛を叫ぶ
昨日の投稿を見て欲しい。
私なりに「愛」を叫んだばかりである。
愛よりは恋かもしれないが。
どんな時でも回りくどいのが、キズである。
皆、満身創痍になっても愛を叫ぶ。
私にそれができるだろうか。
臆病者の戯言である。
モンシロチョウ
20代になって、人生初の恋をした。
しかし、相手はどうやら引っ越すらしく、もうすぐ会えなくなる。
人の思いは複雑だと感じていたが、「好き」の感情がこんなにも大変なことは知らなかった。
たとえ美しく舞うことができなくとも、さなぎのまま朽ち果てようとも、しばらくは大切にしたいものである。
なんせ、私の中にこの気持ちが宿るまで、20年以上を要したのだ。
次が来るのは、何年後になるやらわからない。
精々、苦しむとしよう。
季節外れのモンシロチョウは、舞うことはできるだろうか。
乞うご期待である。
君と出逢って
生きてきた中で、会えて良かったと何度か言ってきた。
だが、人間が苦手な私は、本心からその言葉を言ったことがあるのか、甚だ疑問である。
少なくとも、その場では本心であるから、嘘ではない。
その後の人生に関わる決断の、後押しをしてくれた人だっている。
ただ、久方ぶりに会うとなると、恐ろしく億劫で緊張するのである。
そして会った後は、どっと疲れる。
そのような経験を何度もすると、果たして私は友人を、他者を大事にできているか不安になる。
私は実に自己中心的な人間であるから、余計、である。
君と出逢って良かった、幸せだ、と胸を張って伝えられる日は、いつか来るだろうか。
それまでには、随分と「成長」を要するだろう、と思わざるを得ない今日この頃である。