好き嫌い
この感想を持つということは、その対象に関心がある、ということだと思う。
それは、無関心よりもずっと良いことなのではないだろうか。
関心がなければ、対象に対する認識に変化はないからである。
ある意味、好き嫌いは紙一重なのではなかろうか。
ただ、全てのことに好き嫌いを持っていても疲れる。
ほどほどが、きっと良い。
そうすると、私が関心のなかったことに、好き嫌いを持っている人に出会うと、結構、わくわくするようになる。
なんだか、お得な気がするのである。
愛を叫ぶ
昨日の投稿を見て欲しい。
私なりに「愛」を叫んだばかりである。
愛よりは恋かもしれないが。
どんな時でも回りくどいのが、キズである。
皆、満身創痍になっても愛を叫ぶ。
私にそれができるだろうか。
臆病者の戯言である。
モンシロチョウ
20代になって、人生初の恋をした。
しかし、相手はどうやら引っ越すらしく、もうすぐ会えなくなる。
人の思いは複雑だと感じていたが、「好き」の感情がこんなにも大変なことは知らなかった。
たとえ美しく舞うことができなくとも、さなぎのまま朽ち果てようとも、しばらくは大切にしたいものである。
なんせ、私の中にこの気持ちが宿るまで、20年以上を要したのだ。
次が来るのは、何年後になるやらわからない。
精々、苦しむとしよう。
季節外れのモンシロチョウは、舞うことはできるだろうか。
乞うご期待である。
君と出逢って
生きてきた中で、会えて良かったと何度か言ってきた。
だが、人間が苦手な私は、本心からその言葉を言ったことがあるのか、甚だ疑問である。
少なくとも、その場では本心であるから、嘘ではない。
その後の人生に関わる決断の、後押しをしてくれた人だっている。
ただ、久方ぶりに会うとなると、恐ろしく億劫で緊張するのである。
そして会った後は、どっと疲れる。
そのような経験を何度もすると、果たして私は友人を、他者を大事にできているか不安になる。
私は実に自己中心的な人間であるから、余計、である。
君と出逢って良かった、幸せだ、と胸を張って伝えられる日は、いつか来るだろうか。
それまでには、随分と「成長」を要するだろう、と思わざるを得ない今日この頃である。
耳を澄ますと
耳を澄ますと、風の音がする
山から風が吹きおりる音、海から陸に駆け上る音。
鳥の声、人の気配、船の警笛、電車の発車音を織り交ぜながら。
それが、家でも学校でも聞こえてくる。
いつかは、聞こえなくなるのだろうか。
そう思うと寂しくなる。
同時に、存外この土地が気に入っているのだと感じて、少々恥ずかしく思うのである。
どうやら自分は故郷から離れがたい人間のようだ、と。
せめて、居残り続けて「澱んだ」人間にはなりたくないものである。