独り暮らしを初めてみて、「ホームシックになったことはないの?」と聞かれるけれどそんな気持ちになったことは一度もない。でも寂しい気持ちになるときはある。帰り道友達とわかれて静かになるとき、バイト帰り、凍える寒さのなか家で一人で寝るとき、そんなとき家族を求めるというよりも、お互いのことを理解しあえる友達や恋人がほしいと思う。まだまだ青年期である証拠なのだろうか。
テーマ:とりとめもない話
とりとめもない話、重要でもない気楽な会話ということはわかってる。それでも少し怖くなる。
「おはよー」
「今日寒いね」
「明日雪降るらしいよ」
「…。」
一旦会話が終了するとそこから話題がでなくなる。
何を話せばいいのか心のなかで焦っているうちに、
「あぁ私ってなんて空っぽなんだろう」と感じてしまう。
いつも穏やかに過ごしているせいか、それとも周りに関心がないからなのかと考える。
そしてやっと出た話すらも「でもこれはこの人に話しても興味をもってもらえないかも‥」と話題に出すのをやめる。
相手に聞くのも怖い。「あれどうなったの?」と尋ねたとして私にはそれは関係ない出来事じゃないかと思ってしまう。
明日も友達に会う。そして自分という人間がいかに空っぽで、臆病で、面白くないのか現実を突き付けられるのだろう。
遠くのほうでキラキラと青白く輝く木々がみえた。「もうそんな時期か。」と、信号待ちしている間、手持ちぶさたな私は他人事のように呟いた。大通りは賑わっていて、手を繋いでピンク色になったカップルや元気に走り回る子供とそれを見守る親子などが歩いていた。みんな幸せそうでふわふわした気持ちになる。信号が青になった。重いペダルに体重をかけながらも後ろに乗せているビンたちが割れないよう段差を慎重に降りる。青く使い古したウィンドブレーカーがシャッと擦れて音を立てる。私は細く暗い路地へ元気よく挨拶して入って行った。
たくさん注がれた愛はやがてこぼれ落ちる。コップのように愛にも受け取れる量が決まっている。愛が少ないと愛を求め、愛が多いと重たく感じて愛を拒むだろう。
ギリギリまで満たされた愛はやがて他の人へ注がれる。でも自分の愛が減ることはない。それは注いだ愛が回りに回って自分にかえって来るからなのだろう。だから私は心から笑顔でいられる。もしコップのなかが少ない人がいたら、私はなくなることをためらわず注いでいきたい。そしていつか相手が他の人へ愛を注げるようになってほしいと思う、