目が覚めると、いかにもファンタジーな西洋風の街が…ということはなく、青年の目にはありふれた日常が映っていた。
沢山の人と、ギンギラとしたネオン。
夜も更けたというのに眠気の"ね"の字も無さそうな街で、青年は退屈を紙屑の如く丸めて口から「はぁ」と吐き出す。
「あぁ、うんざりだ」
所謂反抗期の彼はどうにも家にいることが苦痛で、逃げるように街明かりに紛れ込んでいた。
苛立ちを制御できない己に母が悲しむのが嫌で。
あるいは繰り返しばかりの毎日に刺激を欲して。
「うんざりだ」
誰かが電柱の根元に放置した空き缶を蹴飛ばせば、カンカラカンとざわつきの中で音が響く。
しかしそれは青年の"苦しい"という声無き声のように、人々に無視されて埋もれるだけ。
今時の娯楽小説のように次に目を開いたら世界が変わってやいないだろうか。
そんな子供にすら笑われそうな妄想をするくらいには、彼は限界だった。
「ちょっと、ちょっとあなた!」
「え?何ですか!?」
どこかで厳しい声がする。よくここを巡回している警官の声だ。青年も幾度となくお世話になっているので覚えてしまった。
揉め事だろうか。
退屈していた彼は知らず笑みを浮かべ、声の方向にゆっくりと歩を進める。
「その格好、騎士会の人?」
「えっと…はぁ…騎士、です」
「まったく!コスプレするのは結構ですけどね、いつもいつもリアル過ぎって言ってるでしょ」
騎士会と聞いてあぁ、と青年は納得した。
この辺りでは有名な騎士のコスプレを専門としたサークルである。
あまりにも真に迫りすぎてしょっちゅう通報されているのだ。やれ本物の剣を持っているだの、本物の槍を持っているだの、と。
「つまんね」
青年は一気に興が冷め、向けていた足を別の方向へ変えた。
「あーあ、面白いことねーかな…」
ゲーセンにでも行くかと去っていった青年は知らない。
「うわ、今回の剣も凄いね。本物みたいだ…こりゃ通報されちゃうよまったく」
「いや、その、本物ですけど…」
「はい?」
「それより、すみません…ここはどこでしょう?目が覚めたら鉄の馬が走っているし、見たこともない建物だらけで…」
存外、面白い事とは…そこらへんに転がっているのだということを。
「おや?」
道の端。いつもなら気付かないだろうほんの隅っこに一輪の花が揺れているのを見つけ、夏樹は足を止めた。
「こんな所に、花が咲くのか」
塀とアスファルトの隙間にその根をねじ込んで、花はやや斜めに顔を出している。
その姿がまるで柵の下から無理やり脱走する犬みたいでいじらしい。
「あぁ、いや、違うな」
夏樹は鉄仮面とからかわれる口元に小さく笑みを浮かべ、しゃがんで花にそっと触れた。
「似ているのは犬ではなく、あいつだ」
夏樹の頭の中で、花に似た黄色い帽子を揺らす"あいつ"が笑う。
三軒向こうの、立派な屋敷に暮らしていた"あいつ"。
やんちゃで、立派な塀の下にこさえた窪みから屋敷を抜け出すような子供だった。
それを目撃してしまったその日から、夏樹と"あいつ"は友達になったのだ。
正確には、"あいつ"が無理やり夏樹を友達枠に捩じ込んだ…と夏樹はいつも被害者面で言うのだが。
マナーやら、小難しい本やら、身なりのいい大人達との化け合戦。
そんな事ばかりの毎日が嫌いな"あいつ"はいつも、夏樹を巻き込んでわざとらしく泥だらけになって遊ぶのだ。
そもそも脱走の時点で泥だらけになるのだが。
まぁ、なんだかんだ付き合う夏樹も大概だ。
元々人付き合いが得意ではなく、人より悪い目付きのせいで友達の出来にくかった夏樹にとって、"あいつ"は一番だったから。
「おや、夏樹くんかな」
「あ…どうも」
花をつつきながら思い出に浸っていた夏樹は、背中にかけられた声に振り向いてペコリと頭を下げた。
身なりのいい初老の男は「やっぱり」と目尻のシワを深くして、夏樹の方へ杖をついているのと反対の手を差し出す。
「や、大丈夫です」
「そうかい?おや…?後ろのそれは、花?花を見ていたのかな?」
「まぁ、はい」
その手をやんわりと断って、夏樹はパキリと関節をならしながら立ち上がった。
別に隠すつもりは無かったが、自分越しに見つかった花にばつが悪くなって頬をかく。
まるで"あいつ"が近所のおばちゃんに見つかった時の再現みたいだ、と。
「お久しぶりですね、おじさん」
「ああ、三年ぶりかな。夏樹くん」
誤魔化すように挨拶を口にすれば、初老の男は昔と変わらず柔和な笑みを浮かべた。
「とはいえ君は、毎年欠かさず来てくれていたようだけど。すまないね、時間が合わなくて」
「気にしないでください。俺が勝手に来てるだけですし…お互い仕事もあるんですから、仕方ないですよ」
「むぅ、私は君とお茶を飲みたいのだがね。そういえば、君は最近随分と忙しいみたいじゃないか。何でも大きなプロジェクトを任されたとか」
「あれ、ご存知なんですか?」
「家内が教えてくれたよ。誰かさんみたいに頑張りすぎてて心配だ、と小言付きでね」
「あはは…」
夏樹は小柄で世話焼きな夫人を思い出して苦笑する。
実家の母よりも心配してくれる夫人にはいつも頭が上がらないのだ。
きっと今日も…
「それで、今日も君は行くのだろう?それとも、もう行った後かね?」
「いえ、まだです」
「そうかそうか。ならば日が暮れる前に行くといい。残念ながら私はこれから会合だから…」
「お会い出来ただけでも嬉しいですよ。お元気な姿を見れて安心しました」
「はっはっは!それはお互い様だ。次に会う時はそのクマを薄くしておくれよ」
「うっ…」
徹夜続きであったことがバレてしまい、夏樹はさっと目をそらす。
そして、やはり今日も夫人に優しくお説教されそうだと肩を落とした。
「さて、引き留めていては悪いね。では夏樹くん、気を付けて。…いつもありがとう」
「いえ…俺が、好きでしてることですよ。もしかしたら、もう来るなと思われているかも」
「そんなことないさ。…兄は喜んでくれているよ」
「…では、失礼します」
おじさんと別れて、毎年欠かさず歩いている道を進む。
ひび割れたアスファルトはやがて途切れ、剥き出しの地面が都会と違った色を見せてくれた。
だんだん木々の密度も増えて、足元には草が生い茂り、けれどもそれに足が埋もれる前にぞんざいな石の階段が現れる。
それを登った先。
少し高い場所にあるそれは…墓地だ。
夏樹は手慣れたようにバケツと柄杓を借りて、まっすぐ墓地を進んでいく。
季節が中途半端だからか、他に人はいないようだ。
やがて辿り着いたのは、他よりいくぶんか立派な墓石。
そこに刻まれているのは夏樹の家でも、親族のものでもない。
特に礼儀作法に頓着していない夏樹は挨拶代わりに手を合わせ、そして柄杓に掬った透明な水を墓石のてっぺんからさぁと流した。
水が墓石の色を濃く変えていく。
まるで、刻まれた"あいつ"の名前に…冬彦の文字に線を引くように。
思えば冬彦は不思議な子供だった。
塀を抜け出した彼はいつも時代遅れの服を着ていたし、ただの車にすら凄い凄いと目を輝かせていたのだ。
夏樹は最初、世間知らずなお坊ちゃんなのだと決めつけていた。
けれども何度も何度も遊ぶうちに、違和感が生まれたのである。
昨日の天気は朝から晩まで晴れだったのに、冬彦は昨日凄い雨だったけど大丈夫だったかと聞いた。
昨日悪ガキがお前の家の窓を割っただろうと尋ねたら、冬彦はそんな事知らないと答えた。
向かいの家で火事の騒ぎが起こった時、皆が避難しているはずの屋敷から出て来た冬彦は皆まだ家にいると慌てていた。
やがて、子供ながらに夏樹は悟る。
きっと冬彦が出てくる塀の向こうとこちらで"何か"が違うのだ、と。
その答えは、突然パタリと冬彦と会えなくなってから知ることになった。
なけなしの勇気を振り絞って「冬彦くんいますか」と尋ねた塀の向こう。そこで出迎えてくれたおじさんは、それはもう驚いた顔で夏樹を屋敷に招き入れてくれた。
「冬彦は、ここに」
そうして連れてこられたのは仏間。
いくつも並ぶ写真の一つに彼はいた。
夏樹のよく知る笑顔で、セピア色の冬彦は笑っていたのだ。
冬彦は、おじさんの兄は病弱だったらしい。
だからあまり外に出して貰えず、部屋に籠って勉強ばかりさせられていたそうだ。
けれどある日、そんな冬彦が家からいなくなった。
屋敷中探し回っても見つからず、ならばと街を探しても目撃者一人見つからない。
誘拐かと顔を青くした冬彦の両親だったが、「ただいま」と気の抜けるような明るい声に玄関を覗いてみると…
「見て!綺麗でしょ!」
そう言って花を握りしめた冬彦が笑っていた。
泥だらけで、疲れで顔色も悪くして、それでも見たことないほど生き生きと。
「友達が出来たんだ!」
その時漸く、冬彦の両親は間違いに気付いたという。
長く生きられないと宣告された我が子を守っているつもりが、自由を押さえつけて苦しめていただけだと。
今までの笑顔が嘘だったと知った冬彦の両親は泣きながら、それでもキラキラとした息子に喜びを噛み締めながらたった一言「心配した」とだけ告げて抱き締めた。
限りある命なら、その命は誰よりも美しく自由に燃えるべきだ。
それを手助けすることこそが、自分達の役目だろう。
冬彦の両親はそう考えを改めて、知らない振りをした。
見つけた塀の穴を知らない振りして、そこから泥だらけで帰ってくる冬彦を見ない振りして、冬彦の話すおかしな話や探しても見つからない夏樹という友人を否定せず、ただ必ず「心配した」とだけ叱ったのである。
やがて病魔が冬彦の身を蝕んで、命を落とすその時まで。
兄との思い出がほとんど無かったというおじさんだったが、最近見つけた冬彦の日記を見て驚いたらしい。
当時はおかしな話だと思われていた冬彦の思い出話…それが全部現代で見られる物や最近の出来事と一致したからだ。
「そこに君が…夏樹くんがやってきたんだ」
おじさんは泣きそうな顔で笑って、ありがとうと言った。
兄が笑って逝けたのはきっと夏樹のおかげだからと。
夏樹はまだ子供で、何も分かっていなかったけど…冬彦がもういないことだけは分かった。
だからその場で泣きじゃくって、最後にした約束を叫んだのだ。
「花をさがしにいこうって、いったじゃんかぁ!!」
"最初の日に持ち帰った花、お母さんが気にいってくれたからプレゼントしたいんだ。だからまた一緒に探そう!"
指切りもしないで別れた事を、夏樹はひどく恨んだ。
なぁ、お前は覚えてるか?
夏樹は話しかけるように水をかけ、敢えて花は供えずに、数本の線香を供えて手を合わせる。
だって花は、俺が持ってくるのじゃなくて自分で探したのがいいんだって言ってたもんな。
俺、未だに持ってきた花をいらないって言われた時の事根に持ってるから。
帰ってくるはずもない返事を数拍待って、また来年来るからと口約束して夏樹は背を向けた。
「そういえば」
墓地を出て、来た道を戻る途中でふと思い出す。
花で思い出したが…先ほど見つけた花は、冬彦が気に入っていた"最初の花"ではなかったかと。
夏樹はいてもたってもいられずあの道の端に向かったが…そこにはもう、何もなかった。
誰かに摘まれたわけでも、腹を空かせた野良犬に食べられたのでもない。
初めからそこには何もなかったかのように、塀とアスファルトがくっついているだけだ。
「あぁ、なんだ、お前…会いに来てたのか」
夏樹は泣き笑いの表情を浮かべ、花になって会いに来るなんてとんだロマンチストだと空に吐き捨てる。
「確かにお前に似た花だって言ったのは俺だし、塀から出てくるのもお前らしいけどさ」
感傷に浸る夏樹を現実に引き戻すように、ポケットから着信を知らせる音が鳴る。
あぁ、今年はおばさんの夕飯は食べられなそうだと眉を下げ、夏樹はポケットに手を入れた。
夏と冬は出会えない。
けれど、夏樹と冬彦は時すら越えて出会えたのだ。
ならばきっとこの世界には不可能なんて無いのかもしれない。
だから夏樹は、休暇なのに鳴り響いた社用の携帯を迷わずとる。
かつて不可能と言われた技術を可能にするために、彼はまた日常に戻るのだ。
「またな、俺の友達」
去っていく夏樹の後ろで、黄色い花が応えるように揺れた。