同情。
余りにも過剰な同情は嫌われる。私は何にだって、気持ちが高まれば寄り添いそうになる。心の中心が熱くなる気がして、言いようのない不安に襲われる。宙ぶらりんなソファーにでも投げ出されたような気分だ。だけど、それが、同情だと思う。
君の不幸話とか、あなたの辛い記憶とか、私の後悔とか。きっとそういうのには、同情が集まる。けど、それは嬉しくないし、楽しくないから、みんな嫌いなのだろう。でも、同情されるって、それだけ底にストーリーがあるって事だから。なんだか、見つけられた才能みたいに、しっぽを振って喜べるモノかもしれないと思うこともある。
とどのつまり、それは、面白いんだ。だからとにかく、話してみよう。下ろしてみよう。
同情された分きっと、心も軽くなるから。
枯葉。
多分一瞬なのだろう。そこにあった自然も、建物も、人も、花も。枯れるのなんて、ほんとに些細なこと。
これから働き出す僕は、いつまで新人なのだろう。
今まで現役だったあなたは、これから何になるのだろう。比べても分からないことを、もわもわと浮かべては、みつめて、悲しくなる。このまま果てていきたいなんて、誰が思うのだろうか。
一生無くならない場所なんてない。現に私だって、今から地元を離れようとしている。右耳に聴こえるかすれ始めた電車の音と、左耳に聴こえる車が回すエンジンの音。こんな音ですら感傷に浸れるようになるのだから、枯れた心は美しい。
今日は枯葉のように過ごす。きっと明日も実ることは無い。
でも、そんな今日を栄養に、いつか茂る葉を想像して、更なる深みへ落ち沈んで行く。
それが明日の楽しみかもしれない。
誰よりも。
誰よりも優れてるだとか、誰よりも落ちているだとか、なんだかんだ言って比べてしまう。何かで1番になるのが救いで、何かでホンモノになるのが夢なのか。疑問だって生まれなくなってきたこの退化した頭で、何をしたらいいのか。
今日は美味しい焼き魚を食べた。明日は美味しそうな桃を食べよう。
今日は新しいコスメを買った。明日は新しいメイクをしてみよう。
今日は面白い本をみつけた。明日は久々に本を読んで過ごそう。
これだけで多分、誰よりも幸せ。
眠たくなった瞼と、まだ寝たくないスマートフォンの灯りが戦っている。でも、多分、これだって誰よりも平和な日常。
どこかの誰かは何かの上でそこかしこからその武器を持てと囃し立てられている。これが多分、誰よりも不自由で、不安な戦い。そんな戦いをあなたはしている。
私は誰よりも、あなたを知ってる。
だから明日も、共に生きてる。
伝えたい。
お金が無いって、不幸ですか?
いいえ、お金があるだけ、幸福が選べるんです。
だから、お金があるだけの幸福を選ぶしかない。
お金持ちより、貧乏は、選択肢が少ないんです。
「幸福になる」という、選択肢が。
だから、不幸ですか?なんて聞かないで下さい。
どれくらい自分が不幸かなんて、自分じゃ分からないから。
だから、幸福ですか?なんて聞かないで下さい。
比べてしまったら、どこかの誰かより少しくらいは、幸福に決まってるじゃないですか。
でも、そんなの、自分にとっては決して幸福であることの証明ではない。
不幸の方が分かりやすいから。
目を背けたくなるような幸福など、味わったことがないもの。
いつも見ている、どうしようも無い出来事が、全て不幸に見えて、目を背けたくなるのが日常だから。
だから、幸福だとか、不幸だとか、そんなの比べられるはずがない。
でも、そんな中でも、常に幸福な人は居る。
これだから世界は理不尽なのだ。
夢を見てたい。
今まで数ある後悔や無念の中で、夢のように感じたい時は山ほどある。それをちょくちょく思い出しては、悩み、疲弊し、不満がサラサラ流れ出て止まらなくなるマグマ溜りのようにあり続けている。
私は、仲間の心の広さに驚きと怒りを覚えた。自分の中の怒りと共鳴することなく、穏便に息をしている君達はどれだけ人が出来ているのか。自分の中の怒りを正当化は出来ないが、何処かに吐き出して、投げ捨てて、ボッコボコに転がしてやりたいと思うこの荒ぶりを、どこに向けたらいいか分からなくなるから。一言謝罪が欲しいと、嘆いてしまう自分が醜くて仕方なくなるから。
夢の中で、夢だけをみて、その中で楽しく、笑いながら、ただただ過ごしたい。でも、カエルの膨らむほっぺたにも、膨れ始めの風船の中にも、納まりきらないこの感情は、夢では済ませれない。
あぁ、ただ、夢を見てたい。