辛いときや悲しいとき。
なんで私だけがこんな思いをしなければいけないんだと思う。
でも、そんな思いをしているのは自分だけではないということはきちんと理解しているし、なんなら、自分よりもひどい境遇にいる人たちだってたくさんいるということも知っている。
……でも、それでも。
『あなただけが辛いわけじゃないんだよ』
と、私じゃない誰かにそう言われるのは、どうしても納得できないのだ。
私が思い出せる一番古い記憶は、保育園の時のことだ。
『○○ちゃん、お父さんがお迎えに来たよ』
保育園の先生の声と、出入り口の辺りで佇んでいる父のシルエット。
そんな記憶があるんだということを母に話すと、母は途端につまらなそうな顔をして、
「お父さんが保育園の迎えに行ったのなんて、二回だけだよ」
と。
聞けば、普段から迎えに行っていたのは母だったそうだ。
なんとなく予想通りではあったが、しかし、私は父が迎えに来た時以外のことは何一つ覚えていなかった。
話しながら少し悲しそうな表情を浮かべている母を見て、余計なこと言っちゃったかな……と私が少しばかり後悔していると、
「あんたの子供は覚えてくれてるといいね」
と。
物悲しさをはらんだ微笑みを向ける母に、私は「うん」と頷いたのだが、
「でも、あんたの子供だしねぇ」
と、悲しげな雰囲気から一転、ワハハと笑い出した母を見た途端、先程までの後悔はすっかり消え失せていたのだった。
いつからか、天気予報をまったく見なくなった。
社会人になり、主な移動手段が車になったことが原因だろうか。
今や、車体が埋まるほどの大雪や大雨など例外的なものを除いて、晴れだろうが雨だろうが、そういった些細な天候の変化は日常生活に大して影響がなくなってしまった。
……そう。雨が降るなんてことは、今や自分にとって大したことではないのだ。
思えば学生の頃は、天気予報の雨マークを見ただけで憂鬱になっていたはずなのに。雨に降られながら必死に自転車を漕いで、びしょびしょのまま教室に入っては「最悪だよ~」などと、同じくびしょ濡れになったクラスメイトと笑っていたはずなのに。
元々雨ではしゃぐタイプではなかったし、お気に入りの雨具などを持って気分を上げることもなかったけれど、天候ひとつで一喜一憂していたことは、今でも思い出すことができる。
天気ひとつに対して何も思わなくなってしまったことを、『大人になったんだよ』と言われると、「……そうか?」と思う。
しかし、『つまらなくなったね』と言われてしまえば、「……たしかに」と納得してしまう。
こういう積み重ねが自分を『つまらない大人』にしてしまうのかと思うと、少し空しくなってしまった。