かぼちゃの煮物を食べて、湯にゆずを浮かべて
ともすればここから冬が始まるわけだが、冬だなと感覚で思うのはクリスマスソングが聞こえ始める頃ではなかろうか。
赤やら緑が目立つ飾りをしまって、大掃除をして、一日飾りにならないように新年の準備をする。師走とはよく言ったものである。
これが終わればあとはゆっくり過ごせるだろう
かすかに雪が積もっていく音
こたつでみかんを剥いて、ストーブの上のやかんからお茶を入れる。
ごーんと音が響いて年が明けたら、
そっと布団をめくって、潜り込んでいる猫と新年の挨拶でもしようか。
冬になったら
葉が落ち、冬の気配が顔を覗かせる頃。
いつも通りの散歩道だった。流石にまだ早かったかと、持ってきた手袋を上着のポケットに入れようとして取り落とした。拾い上げて落ち葉をはたき落とす。
ふと前を見れば黒い子猫がこちらを見ていた。座ってこちらをじっと見つめたかと思えば、少し進んでは振り向いてなぁと鳴く。
気がつくと後を追って歩いていた。
するすると路地を抜けて行った先に、長い石段。少し褪せた鳥居をくぐり、登りきったところでまた座ってこちらを見ていた。
少し近づけば、とうに役目を終えた賽銭箱の下に、黒猫が臥せていた。子猫が走り寄るのを見るに、親猫なのだろう。さすがに手袋では心許なかろうと、巻いていたマフラーを置いて参道を戻る。
なぁと鳴き声が一つ、もう猫はいなかった。
子猫
雨戸に当たる涙雨
山間の仄暗い誰ぞ彼
色褪せた彼岸花
ゆっくりと冬へ向かっていく、あの物哀しい秋の夕暮れ
哀愁を誘う
合わせ鏡の何番目の自分が成り代わろうとしてくる、だとか、鏡の自分と手を合わせると入れ替わる、とか。
こういった類の、数多ある都市伝説を子供の頃に「怖い話」として楽しんだことのある人は多いだろう。しばらく夜や鏡が怖いと思っていた人も同じくらい居るのではないだろうか。
そして今は、それが娯楽だと知っている。
さて、ありえない、とはよくいったものである。一般に、「無い」ことの証明は悪魔のそれと言われ、ほぼ不可能である。
では鏡に映るのが確かに自分だとどうして言い切れるのか。
誰もその向こう側を見たことはないのにね
鏡の中の自分
春には桜が咲き、夏は神社の祭りと夜空に咲く大輪の花。秋には稲穂が風に揺れ、冬は雪の中で除夜の鐘が響く。
菜の花の隣の小川、涼しげな波の音も、夕暮れの寂寥の虫の声も、雪が音を消した道にざくざくとなる足音も
今や幻、あの景色。
理想郷