追い風
静寂を切り裂いて響くピストルの音、その音が耳に届く瞬間、全身で飛び出して行く。隣よりも速く、その隣よりも速く、誰よりも速く。身体にまとわりつく風を振り切って、自分の手脚さえ置いていく。その刹那、世界には私しか居なかった。
「え、やめたの?」と、大きな目をさらに大きくして君が驚く。やめたよ〜、と、私は何の気なしに、という風に、努めて軽やかに答えた。
「あんた好きだったじゃん、走るの。もったいな〜」
どこにでもあるチェーン店のカップからコーヒーをすすり、君は言う。本当にもったいないと思っているような、どうでもいいと思っているような、どちらともとれる、どちらともとれない、いつもの声だった。
「…あたし才能ないからさ〜」
私もいつもの調子で言う。おどけて、ふざけて、なんとも思ってないって感じで。そういえばあの映画観た?なんて、どうでもいいこと言って、この話は終わり!って空気を作る。
「…別に才能とかじゃなくない?」
君はこの話をやめない。
「あんたは走るの好きだったし、短距離のエースだったし、アタシはあんたが走ってるところ好きだったし」
私は何も言えない。
「なんでやめたん?」
言えない。自分より速い人がたくさん居るから、自分が置いていかれるのが嫌だから、隣を追いかける自分が惨めだから、だからやめました、なんて、口が裂けても言えない。卒業式以来会っていなかったとはいえ、今でも大好きな君に、そんなこと言えない。俯いたまま唇を噛む。
「…走るのイヤになったんならやめたらいいけどさ〜、才能とかそういうんじゃないじゃん。あんたが走るのって」
君は喋り続ける。相変わらず、心配しているような、どうでもいいと思っているような、どちらともとれる、どちらともとれない声で。でもほんの少しだけ、ほんのちょっとだけ、怒ってるみたいな声で。
「好きなら走ればいいじゃん。別に競争しないといけない訳じゃないし。…でもまあ、走ってればそのうち1番になるでしょ、あんたなら」
思わず顔を上げて、君を見た。君はこちらを見ない。コーヒーをすすり、あの映画は観たけど、全然ハマんなかったわ〜と笑っていた。
帰り道、駅から出てすぐのところで、ふいに風が強く吹いて、私の背中を押した。風の行先を見つめる。周囲の音が遠ざかった気がして、耳を澄ませて待つ。次の瞬間、ピストルの音が耳に届き、私は走り出した。
君と一緒に
君と一緒にいるのが、当たり前になっていました。君はいつだってそばにいたから、君はいっだって、そばにいてくれると、これから先もそれは変わりないのだと、そう思い込んでいました。…傲慢な思い込みでした。僕は君にそばにいてもらうために、一体なにをするべきだったのでしょう。一体、なにができたのでしょう。
冬の日でした。とても寒く空気は乾燥し、ビル風が強く吹く、陽の光がキラキラと輝く冬の日でした。冬期講習の帰り道、都会の片隅にある小さな公園で、2人で落ち葉を蹴りながら他愛のない話をしていました。それは本当に他愛なく、明らかにどうでもよくて、僕たち2人にしかわからないような話で、気怠い授業の後のその時間が、僕は本当にどうしようもなく好きでした。
ふと顔を上げた瞬間、君の栗色の髪に暖かい冬の光が透けて輝き、あまりの美しさに時が止まったと思いました。それから一拍遅れて微笑んだ君と、風に揺れる前髪の光と、ちゃめっけを含んだ話し声を受けて、心の底から、君が世界で一番美しい人だと、泣きそうになりながら思ったのでした。そしてそのまま、僕はずっと君と一緒にいられると、君はずっと僕のそばにいるのだと、愚かにも思い込んだのです。
大学のキャンパスは同じでも、学部が違えば授業も違います。僕らが毎日のように顔を合わせる日々は、あっさりと終わりました。それでも連絡を取り合い、慣れない大学生活について愚痴をこぼしあい、たまに時間が空けば一緒に出かけ、たくさんの他愛のない話をして、僕は君と変わらずに一緒にいるつもりでした。そして、あの夏の日、「好きな人がいるんだ」という君の言葉で、僕は自分の恥ずかしい思い込みを知りました。
僕の一番はどうしようもなく君で、それ以外には何もなかったのだけれど、君にとっての僕はそうではなかった、それだけの事なのに、ピストルで脳幹を撃ち抜かれたように動けなくなりました。君は、汗ばんで額に張り付いた栗色の前髪払いながら、されどもその不快感すら愛おしいというような顔ではにかんで、「サークルの先輩」の話をしていました。それは僕の全く知らない人で、君のそんな照れたような顔も僕は見たことがなくて、僕の知らない君の交友関係と愛らしい表情にひどく狼狽し、それを悟られまいとおどけて話すも、かえってしどろもどろになり、結局、ほとんどまともに相槌も打てぬまま、逃げるように帰宅しました。
ベッドの上に大の字に転がって天井を見ながら、目をキョロキョロさせて、一晩中、考えを巡らせていました。僕の恥ずかしい思い込みについて、君の好きな人について、君のあの表情について、そして、僕と君とのこれからについて。一晩中、たくさん考えて、本当にたくさんの思考を巡らせて、明け方、あまりにもわかりきった、一番かんたんな答えにたどり着いたのです。もう今までのように、君と一緒にいることはできないのだと。
夏の朝日が差し込む窓辺に、クーラーの音が大きく響いて聞こえていました。