人間の私たちが預かり知らぬところ、遠い遠いどこかに、五色の山と呼ばれる山々がありました。
そこでは、不思議な力を授かった生き物や妖怪たちが、それぞれの役目をこなしながら、のんびり生きているのでした。
そんな山々の一つに、大きな女郎蜘蛛が住んでいました。
女郎蜘蛛は、来る日も来る日も、洞窟の中の巣の真ん中に座って、糸を紡いでいました。
それが女郎蜘蛛の役目でした。
ただの糸紡ぎではありません。
この女郎蜘蛛が紡ぐ糸は、時を繋ぐ糸でした。
ある日、女郎蜘蛛は時を繋ぐ糸を紡ぎました。
それは銀に輝く、細いけど確かにある頑丈な糸でした。
その糸は見えなくなって、とあるくたびれた女性の指に巻きつきました。
その日、その女性は、幼い頃に書いた将来の夢の作文を発見しました。
そして、自分は夢を叶えられなかったけれど、幼い頃になりたかった、誰かを助けられる大人にはなれていることに気がつきました。
ある日、女郎蜘蛛は時を繋ぐ糸を紡ぎました。
それは白く太いけれど、そのうち折れてしまいそうなほどにしなやかに撓みました。
その糸は見えなくなって、とある死を間近にした父親の指に巻きつきました。
その日、その父親は、寝たきりのベッドの上で夢の中で未来へ行きました。
そして、自分の愛する娘が大勢の人に祝福されて、素敵な人と素敵な家族になる未来を見ました。
ある日、女郎蜘蛛は時を紡ぐ糸を紡ぎました。
それはあまりに細くて弱々しいけれど、とても長い糸でした。
その糸は見えなくなって、都会から田舎に越してきて暇をしている子どもの指に巻きつきました。
その日、その子どもは、どういうわけか、昔の遊びや田舎の遊びの楽しさに気づきました。
未来のためにしたいことやこんな場所でもできそうなことを思いつきました。
そこで、近所の子と仲良くなって、色々なことがしたくなって、外へ遊びに行きました。
こうして女郎蜘蛛は、人間の住む世界からは遠い遠い五色の山の奥で、時を繋ぐ糸を紡いでいます。
たくさんの不思議な偶然を作り出す糸を、今日も紡いでいます。
そして、その糸は今日もきっと、誰かの指に巻きついて、素敵な不思議を引き起こすのでした。
銀杏を 踏んだ靴すら 愛おしい
幼い君が 行く落ち葉の道
物置に 閉じ込められて 考えた
君が隠した 鍵の居所
手放した 時間は今も 宙の上
宇宙をきっと 漂っている
むかしむかし、ある山に、一人の猟師がいました。
この猟師は大変醜く、化け物だと呼ばれていました。
しかし、猟師本人はその評価を妥当だと思っていました。
なぜなら、この猟師には不思議な力があったからです。
猟師は、死体に限って、自由に切り分けられる力を持っていました。
この力があったので、猟師は、
勘違いして殺しにきた村人の死体を、一滴の血をこぼすことなく、豆腐のようにするんと六等分することもできましたし、
獲物として捕まえた、猪や鹿を、見事に血抜き腸抜きをして、素晴らしい枝肉に仕立てることも簡単にできました。
猟師は余計な殺生を避けるために、山の奥に掘立て小屋を一つだけ建てて、暮らしていました。
そうして毎日毎日猟に出て、人間らしい最低限の生活が送れるくらいの獲物を獲って、一ヶ月に一回、密かに村に肉を売りに行きました。
そんな慎ましい化け物の猟師に友達ができたのは、ある秋のことでした。
その年は五年に一度のお祭りの日でした。
村の人々が、山神様に生贄を捧げる年でした。
山の社で猟師は、一人の娘を見つけました。
彼女には身寄りがなく、村に帰れない理由もありました。
娘と猟師は一緒に暮らし始めました。
娘は、縄をより、草を編んで色々なものを作り出しました。
猟師は獣を獲ってきて、綺麗に捌くと、二人分の食糧にしました。
こうして、ひとりぼっちの猟師と娘は、二人で冬を越しました。
その翌月の春のことでした。
猟師はひとり、囲炉裏ばたに座って肉を焼いていました。
娘は、山菜を採りにでかけておりました。
ちょうど最後の肉を串に刺し、火にかけたところで、漁師の耳になにやら低い、重厚な声が響きました。
「おおい、猟師よ、我が中腹に棲む醜い男よ。
おれはお前を憐れんで、
如何なる獣の肉も自由に、
捌けるようにしてやったのに、
お前は恩に報いるどころか、
おれの取り分まで取り上げた。
可哀想だがお前には、
然るべき罰を与えねばならん。
今夜、おれのはお前の盗んだ娘に取り憑いて、
お前を殺しに行くだろう。
苦しく惨めに死ぬように。
村の見せしめになるように。
紅の記憶となるように。」
猟師はすっかり恐ろしくなりました。
猟師は死ぬのも怖かった。信じていた娘が敵になるのも怖かった。
なにより猟師が怖かったのは、死んでなお、村の晒し者になるということでした。
怖気付いた猟師は手にナタを、持って荒屋のドアの裏、ひっそり隠れて娘の帰りを待ちました。
まもなく娘がやってきて、「ただいま」とにこやかにドアを開けました。
猟師は、待っていたとばかりにナタを振り抜きました。
娘はだくだくと紅の血を流し、物言わぬ屍となりました。
紅に濁ったその眼はぐるんと回って、猟師を悲しげに見つめてました。
「なんとなんと残酷な。
お前はお前の手で娘を殺した。
惨たらしくも獣のように。
紅の血を流させて。
お前はいつも必ず人間を、
敵であっても一滴も、
血を流さぬように切り分けて、
丁寧に弔いまでしていたというのに。
お前はお前を化け物と、
断じた村の人々の、
愚かさと変わらぬ愚か者。
さればおれは与えよう。
お前に慈悲の減刑を。
紅の記憶はただ一人、
お前だけのものにする。
愚かでかわいそうなお前を、
晒し者にはするまいさ。」
どこからともなくそんな声が猟師の頭の中に響き渡りました。
その間も、娘からは紅の血がどくどく、どくどく、と流れ続けていました。
紅の液体は土間に固まって、どんどん、どんどん、猟師の視界を紅に染めていくのでした。
それから、猟師の瞼の裏には、あの紅の記憶が焼き付いて離れなくなりました。
紅の血に塗れた娘のぐったりとした体と、紅に濁った娘の大きな眼、紅にベッタリと張り付いた美しい髪の毛。
それらが猟師の頭から離れなくなったのでした。
まもなく、猟師は猟ができなくなりました。
獣の死体を見ると紅の記憶が呼び起きるからです。
人にも会えなくなりました。
脳が勝手に娘を思い出して、紅の記憶を呼び起こすからです。
猟師はなにもできなくなりました。
そうして山の奥の小屋に一人でずうっと篭りきりになり、とうとうその年の夏の暮れ、ひとりぼっちで死んでしまいました、とさ。