夜露を織り交ぜる。
数日ぶりの朝日は、いつもよりずっと眩しい。
私は糸を繰り出して、機を織る。
つややかな夜露は、白い布の織り目にきらきらと輝いている。
カタカタと梶製の機が鳴る。
この衣は特別だ。
今日の夜までに織り上げてしまわなくてはならない。
さらさらと近くの川が流れている。
川の水は止まらない。
だから私は、川の歌うせせらぎに合わせて、糸を繰り出し、夜露を通し、機を動かす。
カタカタカタと機が鳴る。
棚機女は年々減っている。
今年の七夕も、過去最少を記録した。
生きとし生けるものはみな向上心豊かで、強欲だ。
生きる営みには、願いや不満は尽きない。
だからこそ棚機女は減っていくのだ。
神への感謝を伝えるはずの棚機は、いつの間にか、神に願いを託す七夕と姿を変えていった。
今やみな、七夕の星に、神に、短冊に…ありとあらゆる何かに祈りを捧げ、星空を見上げる。
もはや、この日に神のために機を織るのは、ちっぽけな2つの種族のみになってしまった。
蜘蛛と蚕。
遥か昔に糸を編むために足を裂いた八本足の種族と、糸を紡ぐために沈黙を貫いた口無しの種族。
私たち蜘蛛は、夜露を織り込んだ“夜霧の衣”を。
寡黙な蚕たちは、清らかで柔らかい“白雲の衣”を。
それぞれが神様に捧げるために、糸を紡ぎ、機を織る。
それにしても。
今年の七夕は良い天気だ。
今年のこの明るい太陽の下では、出来上がった衣がさそがし美しく映えるだろう。
きっと神様もお喜びになるはずだ。
川のせせらぎが聞こえる。
朝日がきらきらと、水面に反射して、星のように輝く。
きっと今頃、蚕族たちもこぞって絹の衣を織っていることだろう。
今日の天気なら、あちらが作った衣も真っ白に光り輝いて見えるに違いない。
今年も素敵な七夕を迎えられそうだ。
身を焦がすほどに輝く空を見上げる。
暖かな朝日が、織り上げられていく夜露を優しく輝かせていた。
そこはいつでも、パステルカラーの雨が降っていた。
雨と同じ色の水でくるぶしを浸して、私たちは立っていた。
カラン、コロン
柔らかい転がるようなベルの音が鳴って、いつも、そこで私はようやく、ここが夢の中であることに気づくのだった。
目が合うと貴女が笑って。
私たちは、パシャパシャと音を立てて、遊び回る。
何が楽しいのか、なぜ楽しいのかは分からない。
でも私たちは楽しくて仕方なくて、やがて弾けるように笑い転げながら、くるぶしまで溜まった水を跳ね上げる。
私たちの笑い声は、高くくぐもって夢の中にずうっと響き渡って、カラン、コロンとベルの音が柔らかく鳴る。
雨はしとしとと降り続けて、長雨のはずなのに、足元の水はずっと、くるぶしで揺れている。
お互いに笑い転げながら、やがて疲れてきて、2人で水の上に寝転ぶ。
ゆったりと互いに話しながら、空を眺める。
深い灰色の空から、パステルカラーの雨が落ちて、顔を濡らす。
背中を支えるゆるゆるとした水も、顔に落ちてくる水もなんだか本当に心地よくて、私たちはすっかり安心して、幸せな気分で笑いあう。
心地良い水の中で、手を繋ぎあって、やがてゆっくりと瞼が落ちてくる。
水位がゆっくりと上がってきて、私たちを飲み込んでいく。
息ができない
目が開けられない
体が重い
それでも脳は微睡の中で、私たちは心の底から穏やかで、心地良くて。
苦しさも恐怖もうっすらと靄がかかったようで。
貴女の手の温かさだけが、確かで、はっきりで。
私たちはゆっくりと水の底に沈んでいく、そんな思い出。
そしてその思い出だけを抱えて、私は目を覚ます。
その思い出は、はっきりと覚えていないのに、幸せで。
貴女のことを何一つ覚えていないのに、貴女はずっと私の友だちだという確信だけがある。
紛れもない貴女との、友だちの思い出。
アラームが鋭く鳴って、私は思い出から引き剥がされる。
もう夢の記憶はない。
ただ、友だちの思い出の、優しい柔らかな感情だけが、私の胸の裡にほんのりと残る。
カーテンを開けて、朝日に目を細める。
夢の中の、友だちの思い出をひっそりと、胸に抱いて。
立ち上がり、身支度をして、朝ごはんを腹に収めて、靴を履く。
私はいつもの現実へ、活動を始めるのだ。
星座早見盤を持って家を出た。
星空を眺めるのなんて、いつぶりなのだろう。
蒸し暑い、遥か遠い中空に張る黒い帳に、これでもかと星が散らばっている。
星と星を繋いでみる。
直線で出来た骨組みだけが現れる。
夏の大三角は、デネブが不憫だ。
逢瀬を控えて盛り上がる他の2人を傍目に、白鳥の尾羽は愚直に光っている。
星座早見盤と星空を見比べながら、指先で星を追う私の傍らで、目を細めてにこやかにこちらを見守る彼女が立っている。
目が覚めたとき、彼女は私の隣にいた。
私に声をかけて、食事や暮らしを計らってくれ、星空の見方を教えてくれた。
星空が好きなんだろう。
私はすぐに星空に夢中になった。
何も覚えていないのに。
何も分からない。
何も覚えていない。
何も知らない。
彼女のことも分からない。
星座への好奇心だけが、星空への執着だけが、ただ私の脳内に、ぽつんとあった。
七夕。
もうすぐ七夕だった。
何も分からない私の部屋にかけられたカレンダーには、七夕が赤く丸つけてあった。
…それは、気づいた彼女が慌てて剥がしたのだけど。
彼女は親切で、優しくて、でも口の利けない彼女は、私に星以外のことは教えてくれなかった。
ここは、人里からかなり離れた場所のようだった。
彼女も私も、この庭までしか出ずに、庭の家庭菜園と、定期的に届く瑣末な食料品で暮らし続けた。
時折、遠くの街の光が見えたり、海の向こうの岸が赤く燃えたりしていた。
でも大抵は対岸の火事で、この小さな私と彼女の世界は、すこぶる平和だった。
今日だって、星空の下に続く街の方でバラバラとなる騒音も、星空の先に浮かぶ岸の街にあがる煙も、私たちには関係ないものだった。
…だが、本当に関係ないものなのだろうか?
ないはずの左腕が密かに痛むのは、そういうものを見た時だった。
もしかしたら、私はあの穏やかではない向こう岸に、何かを置いてきたのではないか。そんな疑問が、ふいと脳の隅で頭をもたげたまま、固まっている。
彼女がふいに星空を指差した。
星が一つ流れ落ちた。
彼女はいつもより僅かに嬉しそうに笑って、こちらを見た。
その嬉々とした瞳に応えて、私も微笑んだ。
今の私にとっては、ないはずの腕の痛みよりも、彼女と寄り添っていること、それが一番大切なことのように思えた。
遠くで、星空を揺るがすような轟音が響いた。
星空がかすかに揺れた。
私たちの庭は相変わらず、静かだった。
星も、静かに瞬いていた。
あの日は、蒸し暑い日だった。
太陽がごうごうと熱を上げていて、雲を全て消し飛ばしていた。
陽炎が先の先で揺らいでいた。
脳が煮えるような暑い夏の日だった。
そんな中を私は貴方と2人で歩いていた。
彷徨っていた。
出口も入口もハイキングコースも分からないまま、私は、ずっと歩き続けていた。
蝉が鳴いている。
梢が水色の色画用紙を貼ったような空を背景に、パラパラと散らばっていた。
がさり、と足元が音を立てる。
ずるり、貴方が音を立てる。
もう私たちは何処を目指しているのか分からなかった。
あの頃から、私たちの関係は冷え切っていて、私たちが目指したはずのゴールは、陽炎のように揺らいでいた。
もう私たちは何処を目指しているのか分からなかった。
ハイキングに来たこの山で、私たちは道を外れたのか…あったはずの道順は、強い日差しで陽炎になって揺らいでいた。
私は、自分が何をしたのか分からなかった。
気がついたら、貴方がぐったりと地面に落ちていた。
襟首を引き、山を登った。
貴方は、あれだけ熱を持っていた口を冷たく閉じて、燃えたぎるようだった目に霜を降ろしていた。
ぐったりとした貴方は重たくて、でも、素直だった。
私は、首にかけたロザリオを握りしめる。
太陽の熱を蓄えたロザリオは、強く暖かい。
私は今、何をしているのだろうか。
何処へ行こうとしているのだろうか。
私は神様に問いかける。
本人である私すら理解できない今の私の状況を、理解できるものがいたら、それはきっと神様だけだろう。
神様だけが知っている。
私の行く末も。
貴方の行く末も。
この暑い夏の日の結末も。
くらり、と脳が煮える。
私は何故ここに来たのだろうか。
私はどうして貴方を誘ったのだろうか。
何も分からない。でも大丈夫。
きっとそれも、神様だけが知っている。
蝉の慟哭が聞こえる。
ロザリオを握りしめた手のひらに、鈍い痛みが走る。
襟首を握りしめた拳の内に、汗が滲む。
真っ青の空の中、陽炎は何処までも揺らいでいた。
ひんやりと空気が辺りを包む。
白い水気のある霧が、周囲に立ち込めている。
一歩を踏み出す。
道の先は白い濃霧に覆われて、見えない。
小川がせせらぎを歌う音がする。
足先が、何か小さなものを蹴飛ばす。
前も後ろも右も左も見通せない。
枝を抱え上げた草たちは、頭上からじっとこちらを見下ろしている。
先の見えないこの道の先。
一体何があるのだろうか。この道の先に。
…少なくとも、正しくはないこの道だ。
木の根が爪先に触れる。
道はまだ続いている。
傍に下げた剣の柄が、微かに揺れる。
並んで隣を歩く者はもういない。
先立って前を歩く者ももういない。
一人だけの道だ。
師匠が殺されてもう十年。
あの不義理な戦いで師匠が消えてから、師匠に育てられ教えられるという、唯一にして強大な共通点を持っていた僕たちは、それを失ったがために散り散りになって、日常を失った。
ほとんどの者が道を諦めて、違う道へ逸れていった。
一部のものは不義理の不幸を振り払って、新たに道を模索した。
僕以外にも、この道に固執した者もいた。
でもその者たちもいつの間にか、別の道へ逸れていった。
…今や、師匠の仇への復讐を目指して、この道を歩むのは僕一人となってしまった。
道を逸れていった兄弟子たちは、どんな道が見えているのだろうか。
濃い霧に覆われたこの道を絶えず歩きながら、時々僕は考える。
もう兄弟子たちに恨みを感じることも、怒りを感じることもない。
ただ、他の道がどんなものなのか、ふとした好奇心が胸の中に過ぎる。
この道の先に。一体何が待ち受けているのだろうか。
この道の先は。兄弟子たちの歩く道とどう違うのだろうか。
年々険しくなる道を踏み締めながら、僕はじっと考える。
孤独で過去に囚われた長い道。
でも、兄弟子たちの道先を思いながらも、僕はただ、この道の先につくまでは、前へ進めないだろう。
深い霧が立ち込めている。
爪先が、小さな石ころを蹴飛ばす。
道の先には、真っ白な霧だけが広がっていた。