繊細な花なんてないんだよ。
それが、うちの母さんと父さんの口癖だ。
僕は花屋の息子で、家にはたくさんの花が溢れていた。
確かに、どの花も逞しかった。
扱いが難しい花や、時期を逃すとすぐに散って枯れてしまう花も確かにある。
虫に弱い花も、環境の変化に弱い花も確かにあった。
でもそれは、僕たちが観賞用の視点で見ているからで。
僕たちがわざわざ観賞用に、生息地以外の環境に連れてきているからで。
どの花も生きるのに精一杯で、病気だろうと虫がつこうと命を繋ぐことを諦めなくて。
なるほど、確かにその様は、とても外部の変化にすぐに脆く崩れ去る“繊細”という言葉にはそぐわなかった。
繊細な花があるとしたら、そりゃ造花だろうなあ。
かつて庭師だった母方のじいちゃんは、よく呟いた。
僕もそう思った。
花も、花について駆除される前の虫も、庭先から拾い上げた子猫も、そして人間たちも。
おおかたは、生きることを諦めない逞しさを持っていて、葉をたたみながら、のたうちうねりながら、じっと蹲りながら、「死ぬ」とか「毒親め」とか吐きながら、そして本気でそう思いながらも、自分を助けて命を諦めないために、必死だった。
それを繊細だなんていうのは失礼だと思った。
繊細な花というものは、きっとアンデルセンの『うぐいす』に出てくるような陶器でできた花。
きっとミダス王が不用意に触ってしまった時の止まった金の花。
細いガラスの茎と薄いガラス片の花びらでできた花。
そんなものだと思った。
そんな繊細な花を見ることなんてない、と思っていた。
繊細な花のような人に会うことなんてない、と。
でもそれは違った。
今年初めてクラスメイトになった。
この学年一の美人だと、よく騒がれていて、名前は僕でも知っていた。
初めて顔を見たときに、僕は衝撃を受けた。
想像していた雰囲気と違ったから。
人としては初めて見る、繊細な花だった。
透き通るような白い肌。
すらっと伸びた体躯に、柔らかで滑らかな声。
穏やかに微笑み、端正な姿。
そのどれもが、繊細で脆くて造花だった。
話したのは、たった一度だった。
「ねえ」
僕に声をかけて笑った顔は、恐ろしく綺麗で、儚かった。
「明日からは、もうここには来ないような気がするんだ」
「…そうなんだ」
僕がかろうじて搾り出した返答に、満足そうに、今までで一番綺麗な顔で、微笑んだ。
「うん」
彼はそれ以上、言葉を紡ぐ必死さを持ち合わせていないようだった。
「…なんで、僕にそんなこと言ったの?」
僕は繊細さを壊す恐れより、この繊細な花に何もしないで帰してしまう方がよほど怖くて、そう聞いた。
「なんかさ、」
遠くを眺めて、それから弾けるように破顔して、僕に向かって言った。
「クラスの中で君だけは、俺のこと分かってくれてそうだったから」
「…そうなんだ」僕は呟いた。
「それじゃ」僕をおいて、時計を見上げて、立ち上がる。
その背中に僕は、声をかけたんだ。
「また明日ね」
振り向いたその顔は、悲しそうで、優しくて、どうしようもないくらい美しくて。
僕はただ、ああ、何を言っても、造花はもう割れるんだ、そう思った。
「…ん」
それだけ答えて、彼は夕焼けの中に消えていった。
あれから二度と、彼と話すことはなかった。
繊細な花が使っていたあの机には、水に生けられて生き生きとした白菊が陣取るようになった。
造花を囲んでいた花たちが、繊細な花の死を悼み、乗り越えて生きるために、啜り泣き、学校を休み、やるせなさを吐き捨てた。
僕は毎日学校に行った。
僕は、何もせず、今までと変わらない日常を生きながら、時々、繊細な花の最後の笑顔を思い出した。
あれが、繊細な造花の満開だったのかもしれない。
今はただ、ぼんやりとそう思う。
1年。
たった1年の差だった。
ほんの1年、産まれるのが遅れただけ。
それだけだったのに。
「それじゃあ、また1年後だね」
そう笑い合ったのに。
パキパキと、よく分からない雑音が、遠くで聞こえる。
目の奥がぎゅっと滲む。
折り重なった落ち葉と小枝が、乱雑に敷き詰められている。
埋もれるようにして、あなたの鞄のキーホルダーが落ちている。
さわさわと木の葉が揺れる。
遠くで鳥の鳴き声がする。
肩にかけた通学カバンが重たく食い込む。
あなたは何処にもいない。
風だけが、傷口を抉るように優しく通り過ぎていく。
キーホルダーの奥。
鳥居が、まるで口を開けて待つ怪物のように、ひっそりと聳え立っている。
鳥居からずっと続く山道の奥から、大人たちのざわめく声が聞こえる。
「1年後なんて、なかったんじゃん」
思わず、小さく呟く。
鳥居の奥には神様がいる。
人と引き換えに、願いを叶えてくれる神様が。
…今年は厳しい年だった。
感染症の流行で、観光客もいない。
出稼ぎもできない。
冷夏で、僅かな第一産業も酷い有様。
この村から出られない私たちが、出来ることはなかった。
私たちは“巫女”だ。
身寄りがなかったり、直接血の繋がった実の家族がいなかったり、家庭の問題で保護されていたり、とんでもない問題児で見捨てられた境遇だったり…。
そういう子たちはこういう緊急時には“巫女”となる。
巫女となって、願いを叶えるチケットになる。
歳の小さい子から、チケットになる一週間前にお願いされて、村を救うためのチケットになる。
1年。
たった1年の差だった。
昨日、私の誕生日を一緒に祝ってくれたのに。
その時には何も言わなかったのに!
「1年後なんて、なかったんじゃん…」
私は独りぼっちで、鳥居に向けて呟く。
「嘘つき」
あまりに弱々しすぎる自分の声が、情けなくなる。
「嘘つき…」
私の声は、ざわざわと囁く枝の中に呑み込まれていった。
子供の頃は、親が守ってくれていた。
あまり良い両親とは言えなかったが、それでも確かに、俺は守られていた。
子供の頃は、裏切りなんて知らなかった。
友達は、今日も明日も明後日もずっと友達で、いつも一緒だと思っていた。
子供の頃は、自分が幸せになれるものだと信じて疑わなかった。
大切な人がいつかできて、人生の目標がやがて見つかってやり遂げて、安らかに眠りにつくものだと思っていた。
俺は幸せな少年だった。
あの時が来るまでは。
「この機械じゃ、世界は変えられんよ」
駆け込んできた俺に、冷静に彼女は言った。
彼女は淡々と、ホワイトボードに樹形図を書きながら、話し始めた。
「いいか?世界は選択の数だけ無限にある。私たちの世界はちょうど、そう観測されたことによってチャンネルが合っているだけで、私たちの世界線の外には、これまでの全ての“選択されなかった”選択の先の世界が、並行して並んでいるんだ」
「つまりだね…このタイムマシンで過去に行き、選択を変えたとて、それは君がその選択を選んだ世界線へ移動するだけで、新たな君がここで苦悩することになるのだよ…」
「だから、正直おすすめしないね。その選択をした世界線の君と君が入れ替わるだけで、それ以外にこの世界にはなんの変化もない。ひょっとしたら自分に恨まれることもある。よって、そんなリスクの高い意味のない行動はおすすめしない」
「俺は行きます」
俺は答えた。どんなに無駄なことであろうと、最初から決めていた。
俺の言葉に、彼女は微かに眉根を寄せ、ため息をついてから、少し震える声で続けた。
「…確かに今回の件は私も辛い。だが……」
「俺は行きます」
彼女の言葉を遮って俺は怒鳴った。
「もうこんな世界は懲り懲りなんだ!両親は死んだ!親不孝の息子のせいで、分かりあう前に、仲直りもできないままで!!友達もいない!良い奴から死んで、生き残った奴は裏切った!俺には何にも残っちゃいない!!」
喉にひりついた痛みが込み上げる。
俺はゴホゴホと痛みを吐き出す。
赤い飛沫が落ちる。
俺の方に傾いだ彼女の手を、俺は振り払って怒鳴る。
喉から掠れた声が出た。
「この世界に何も残っちゃいないんだ…!もう…もうこんな貧乏くじは懲り懲りなんだ…戻りたいんだ、子供の頃に。子供の頃は…ああ…頼むよ……最期の望みなんだから」
彼女は黙って立ち上がる。
俺はゼイゼイと肩で息をしながら項垂れて、長い沈黙をしばらく享受した。
足音が近づいてくる。
俺の目の前に、鍵が差し出される。
「…そこまで言うなら、勝手にするといい」
「…!ありがとう!」
俺は鍵をおしいただいて、顔を上げる。
「私だって、面倒事はもう懲り懲りだ。……この件が最期のお願いだと心得ろよ」
俺の泣き笑いの顔に、彼女はそう冷たく言い放った。
しかし何故だろう、彼女の目の奥に、ちらりと悲しみとも切なさとも諦めともとれる形容し難い何かが、チラと走ったように見えた。
「じゃあ、さっさと行くが良いさ。じゃあな」
「ああ、さようなら」
俺は鍵を使い、タイムマシンに乗り込む
__これで何回目だろうか。
タイムマシンが消えた研究室の椅子に、ぐったりと、腰掛ける。
彼が、世界線の移動を始めてから、私は何人の彼を見送ったことだろう。
タイムマシンで行えるのは世界線の変更。
質量保存の法則で、移動した世界線の人物は入れ替わり、別世界線の同じ人物が、この世界線にやってくる。
“記憶を消されて”
世界の理とは、実に上手くできているものだ。
世界線を移動した人物の記憶は、移動した時点でその世界線のものに書き換えられる。
記憶は保管される。
…それが分かったのは、私が彼を送り出してからのことだった。
故に彼は、何度も何度も、無限と思えるくらいにこれを繰り返している。
説明は意味を為さなかった。
この世界線で起きた出来事に絶望し切った彼の摩耗した精神の前には、如何なる理性も通用しなかった。
これは私の責任だろう。
世界線を跨ぐということに無知で、タイムマシンの安全性を試さずに彼を送り出してしまった、私の責任だ。
…だから私は、最期までこれを見届けなくてはならない。
子供の頃は。
私はただタイムマシンに憧れているだけの理屈っぽいただの少女だった。
子供の頃は。
彼はちょっと野心の強い、真っ直ぐした性根のやんちゃなただの少年だった。
「子供の頃は…子供の頃に戻りたいな」
ひっそりと弱音が漏れた。
誰もいない研究室。
たった1人の味方だった彼はもういない。もう帰ってこない。
私の研究成果はもう戻らない。動かなくなるまで彼と一緒に永遠とループし続ける。
私は独りだ。
目を瞑る。
私の呼吸は、独りの沈黙の中に、静かに溶けていった。
電気をつける。
ちっぽけな部屋を照らすちっぽけな照明が、いつものようにジジッと音を立てて点灯する。
なんとなくテレビをつけて、今日の夕飯をテーブルに並べる。
国民用ラジオが静かに稼働を始める。
ビニール袋から箸を取り出して、手を合わす。
味気ない夕飯をもそもそと書き込みながら、今日もチカチカと光を放つテレビと、やかましく話し続けるラジオに程々の意識を傾ける。
暗幕で光を抑えたさもしい照明。
勇ましいことをいろいろと叫ぶ国民用ラジオ。
派手な演出と射幸感を煽るテレビ番組。
テーブルと、椅子と、毛羽立った分厚いカーテンのみの一部屋。
端にこっそりと、硬いマットレスを乗せた小さなベッドが横たわっている。
夕飯を食べ終えると、申し訳程度についている洗面台に向かい、歯を磨く。
ラジオからは、ちょうど、配給券の得点相場についてのニュースが流れ始めたところだ。
テレビは、戦果報告をやたら派手な演出で祝っている。
それを耳に挟みながら、国民用端末を立ち上げて中身を覗きながら、歯を磨く。
いつもの日常だ。
深く考えてはいけない。
ここでは深く考えてはいけないのだ。
もう何年前のことかも思い出せない、ある日。
この国に、未確認生命体が攻めてきた。
奴らは、電波を操り、未知のテクノロジーを使って、人間を侵略しようとした、らしい。
…公営の報告によれば。
そしてそれを阻止するため、政府は緊急法案を作り出した。
公営のもの以外から情報を得ることは、未確認生命体の侵略の被害に遭うとされ、禁止された。
未確認生命体が、人間に扮して侵略を進めるとされ、全ての行動は、国民用端末を利用して監視されることとなった。
未確認生命体の国民をターゲットにした扇動を防ぐため、個人的に読書や調査によって情報を収集すること、個人が深く思考するということを禁止された。
夜は未確認生命体に襲われないように、外出することが禁止された。
住む場所は政府によって各人に割り当てられ、本棚は全て燃やされた。
現に、閉まっているカーテンの隙間から、一つ目の何かが歩んでいるのがたまに見える。
未確認生命体はいるのだ。
…それが襲ってくる気配は、今のところない。
が、政府は危険視している。接触してはいけない。
これが日常。日常なのだ。
いつから続いているかは分からない。
いつまで続くかも分からない。
でも、これが既にこの世界の日常だ。
…深く考えることは罪なのだ。
私は、テレビを消す。
ラジオを消す。
照明を消す。
電気は繋げっぱなしにしておく。監視カメラが動かなくなるから。
硬いマットレスに横になり、目覚まし時計をかけて目を瞑る。
深く考えてはいけない。
いつも通り日常を過ごさねば。
頭で何度もそう唱える。
心の奥から湧き上がる危険思想を噛み殺す。
政府は独裁をしているのではないか
未確認生命体は本当に敵なのか
そんなことは考えてはいけない。
思考は、日常に必要ない。
目を瞑る。
毛布を被る。
ジィーッ
電気の駆動音が、じっと鳴っている。
深く息をすい、目を閉じる。
危険思想も意識もゆっくりと、睡魔に呑み込まれていった。
赤シート越しに空を見上げる。
好きな色は青色だった。
「やっぱり。似合ってる!」そう言って、眩しくてあたたかい金色の目を輝かせて、笑ってくれたから。
「夜空みたいに綺麗な深い紫の目だもん、ぜったい青似合うと思ったんだよね」
色違いでお揃いのペンジュラムを買った。
一緒にお呪いを試した。
こっそり灯台の書庫に忍び込んだ。
思えば、その時は、ぽつんとそこだけ塗られたぬり絵みたいに、私たちの日常には色があった。
「空と海って、青いんだって」
空に手を翳して、眩しそうに目を細めた横顔を、私は瞳を輝かせて聞いた。
「朝は青くて、夕方には赤く焼けて、夜には深い紫に、たくさん星が出るんだって。写真を見せてくれたんだよ、内緒で、パパがね」
私たちは、そのアルバムに夢中になった。
空はいろんな色で、海もいろんな色をしている。
夢みたいだった。
中でも青色の空と海は美しかった。
とても眩しかった。
当たる光が、隣でゆっくりと瞬く瞳と同じで、眩しくてあたたかい気がして。
あの日、私たちは喧嘩した。
もう原因は憶えていない、思い出せない。
頭に分厚い灰色の雲が立ち込めたみたいに。
私は走って、走って、何故だか泣きながら海に向かった。
魚の生臭い匂いとカラスの鳴き声が立ち込めているはずの、あの灰色の海に。
奇跡の日だった。
あの日、雲と霧は晴れて。
真っ赤に燃える赤い丸が、海の向こうに見えて。
橙色に空が染まって。
眩しいのにあたたかくて。
見せたくて走った。会いたくて走った。
仲直りしたかった。
それがその日の記憶の最後。
二度と会えなかった。
私たちはあの日の夕焼けを、並んで見ることはできなかった。
次の日の空は元の通り、分厚い灰色の雲に覆われて、海は冷たく灰色にうねりをあげていた。
霧が空を取り巻いて、潮の匂いが目に染みる。
もう変わらなかった。陰鬱に沈み、色があるはずなのにモノクロで、賑やかなはずなのに静かで。
ここの生活は変わらずに。
金色の、眩しくてあたたかい、一対の瞳だけが失われて。
あのあたたかい海が、私の網膜を焼いた。
金色の、眩しくてあたたかい瞳が、目の奥をちらついた。
赤く橙に染まった空が、私の海馬を熱した。
それだけが、残ったものだった。
私の好きな色は、青色だった。
青色だった。
赤シートを空にかざす。
鈍い海風が、低く唸る波の音を響かせていた。