「…ようやく辿り着いた。ここがハッピーエンド…」
私は腕を下ろす。
目の前には、私が望んだ理想の景色が広がっている。
「よく頑張ったね」私は笑いかける。
…君からの返事はない。照れてるか、意地を張っているんだろう。我慢強くて、大人っぽくて、いつも冷静な君のことだ。感情を表に出すのは苦手な君だから…
大丈夫、いつものことだ。私は気にしない。
「もうこれも、いらなくなっちゃったね!」
君に笑いかけて、私は剣を放り投げる。重たかったはずの剣はカランッと思いがけないほど軽い音を立てて、焦げた硬い地面に転がった。
その音がしてようやく、君は浅く口を開く。
はぁ、はーぁ
君が息をする。
「私たち、もう戦う必要、ないんだよ。みんなの平和や正義を、自分を犠牲にして、守る必要はもうないんだ!」
私は君に語りかける。
はぁ、はーぁ、はぁ
君は浅く息をする。
「私、解放された気分!だって、もう、やりたいこと我慢して、命かけて、危ない思いして、あんな怪物とか、あんな悪いやつとか、戦う必要も、ないんだよ!」
はぁ、はーぁ、はぁ、はぁ
「私たち、もう、授業を抜け出さなくて、済むんだよ!放課後に、遊ぶの諦めて、パトロールもしなくて、済む!勉強も、運動も、他の人とか、社会なんか、気にせずに、好きなだけ、好きなだけ、できる!」
はぁ、はぁ、はぁ、はーぁ、はぁ
「学校も、部活も、趣味も、遊びも、私たちが、好きなように、できる!私、幸せ!」
はぁはぁはっ、げほっ、はぁ、はーぁ、げほっ
「だって、私たちが、守らなきゃいけない物も、救わなきゃいけない人も、建物も、生物も、何もない!私と、貴女、2人きり!」
げほげほっ…はぁ、はぁはぁはーぁ、…げほっ
「私たち、もう、ヒーローじゃなくていいの!普通の、ただの、学生に、戻れたんだよ!」
「ね、だからさ、一緒に楽しもう?私たちの、ほんとの、ハッピーエンドは、ここだったのよ!」
私は、うずくまってえずく君に手を差し出す。
君の浅い息と、泣き声と、私の声。
それ以外に音はない。
辺りは一面、どこまでも、黒く燻った地面が広がっている。私が、いつかのあの時から、ずっと待ち望んだ景色。なんて清々しい景色だろう。
もう、怪物と戦う私たちを応援する人間はいない。
もう、誰かを救えなかった私たちを責める人間はいない。
もう、全人類の正義と希望を私たちに背負わせる人間はいない。
もう、私たちの生活にヒーロー像を押し付ける人間はいない。
もう、全てを守れと私たちに命令する人間はいない。
もう、私たちに守ってほしいと縋る人間はいない。
もう、私たちを脅威として殺そうとする人間はいない。
面倒なものは何もない。完璧なハッピーエンド。
「幸せだね、私たち」
うぇっ…
満面の笑みの私に、答えてくれるのは君だけだ。
思わず手に取ってしまった。
人目がある手前、すぐに戻してしまうわけにもいかず、パック越しに見つめあう。
夕飯時のスーパーの鮮魚売り場。
お仕事帰りのお客様や、安く夕飯を調達しに来たお客様で、店内はまあまあ賑わっている。
私はふたたび手元に目線を落とす。
私の手の中の、パック越しの、無数の桜エビたちに見つめられる。
胡麻よりも小さい、針で刺したような目だ。
割引シールを貼りかけて、手を止める。
何をしているのだ、私。これは保存の効く商品。まだ割引シールを貼らなくても良いものだ。このシールは桜エビたちのためのものではない。
私はそれをそのまま商品棚に戻す。
こちらを見つめている鯵を手に取り、2割引のシールを貼り付ける。
後ろの方から、割引シールを貼られた商品を待つお客様に見つめられる。一昔前は、くたびれた普段着を召した主婦の方の視線が強かったが、今では、スーツに身を包んだサラリーマンのお客様もちらほら見える。
誰もがお得に買い物したいのだ。
「早く貼り終えてくれねぇかな…」という圧を感じてしまうのは、私の考えすぎだろうか。
私は鯵に2割引シールを貼り終えると、隣の鮭の切り身のパックを手に取る。こちらは目がついていないから、気が楽だ。
割引シールを貼る時、商品に見つめられるとなんだか居心地が悪い。この時間帯まで売れ残った商品の目は、「私は定価の価値すらないの?」と言っている気がする。
でも、割引シールを貼らないのに商品に見つめられるのもなかなか居心地が悪い。これは今日初めて気づいた。
…桜エビたちに見つめられた時の光景が、頭から離れない。あの子たちを商品棚に戻した時、「私たちには割引される価値すらないの?」と言われたような気がして。
見つめられるのは苦手だ。居心地が悪い…。
それでも、とりあえず私は、生きるために割引シールを貼り終えなければいけない。
私は静かに溜息をつくと、カートを押して、次のお惣菜売り場へ向かった。
オレは10歳の時、突然倒れた。
生まれつきの欠損が発覚したのは、その時だ。
肉体改造のため、ドナー提供用の家畜が飼われる昨今、そんな風潮に異議を唱える“昔カタギ”の人間である、オレの親父とお袋は、息子のそんな知らせを聞いて泣き崩れた。
肉体改造のために発達したバイオ技術を使った移植手術を受けない限り、オレは一生このままだと、医者は脅した。
頑固なことに定評のある姉貴は、「諦めなければ、何か手はあるはず」と、医者を探し回った。
そしてついに、その手を見つけて来た。
親父とお袋は、その手術をオレに受けさせるために、身を粉にして走り回った。
そして、今のオレがいる。
「バカな!こんな型落ちの肉体に私が負けるわけがっ…!」
真っ赤な床の上、目の前に倒れ伏したヒトが言う。
肉体改造を重ねたのだろう、不自然にしなやかで血管の盛り上がった肉体に、異常発達させた爪や武器のために突出した骨が、浮き出ている。
「このバイオ絶縁体を内臓部に合わせれば…右心房の…電気興奮が……阻害され、…心…臓は、動かなくなり、……動きを止めるはず…では…」
ピルケースを握りしめ、絞り出すようにうめく奴の脳天をオレは撃ち抜く。
パァンッと乾いた音が響く。
これだけ肉体改造しているのなら、どうせ脳も2つあるんだろう。
案の定、奴は血まみれの頭をもたげる。
オレはその頭を掴むと、奴の目を見つめる。
「なあ。お嬢さん、一つ教えておいてやろう」
「オレの心臓はここにはねえ。オレの心臓はな…」
驚いたような怯えたような奴の顔を眺めながら、オレは鎖骨のすぐ下を軽く親指で叩いてみせた。
「My heart is here。ここにあるのさ」
肌の上からでも、こつこつと硬い感触とほんのり持った熱が伝わる。
姉貴が見つけ、探し、買い取ったペースメーカー。'24年の年代物だ。
「…よし、連れてけ。お前たち、“家族”の分も、じっくりもてなしてやれ」
オレは顎をしゃくり、若い衆どもに伝える。
奴は引き摺られ、赤い筋を残しながら、消えた。
オレは葉巻の灰を落とし、革張りのソファに腰を沈める。
「時間がかかったが、やっと終わった。…苦労かけて、挙句にこんな待たせて…不甲斐ない弟ですまない、姉貴」
写真立ての中の姉貴は、あの時と変わらない顔で笑っていた。
霧のような雨が降る。
雨のあまりの柔らかさに、雨宿りをする気も起きず、濡れっぱなしで身軽に歩く。
濃霧のように白い水蒸気が立ち込めていて、湿った春の香りがほのかにする。
私はゆっくり辺りを見まわし、跳ねるような足取りで歩き出す。
「出てけ!」と追っ払われた後だし、どうせしばらくは戻れない。
雨だから歩道は空いているし、お散歩にちょうど良い。
車が水飛沫を上げながら、通り過ぎてゆく。
雨の日の環境音は、いつもより耳に響いて、心地良い。
私は鼻歌混じりに適当に歩く。
なんと、ここには空き地があったのか。
でたらめに歩いた道の先に、背の高い草の生い茂る空き地があった。
錆びたベンチが向こうに見える。私はそっちに向かう。
ベンチの上には先客がいた。誰かが忘れていったのだろう、ふかふかのぬいぐるみだ。
大事にされていたのか、赤い首輪までつけている。雨に濡れて、ぴかぴか光るネームプレートには、「コロ」の2文字。
いいなぁ…、思ってしまってから私は、気づく。
これがないものねだりか。
でも、あっちも案外、動く私の方が羨ましいのかもしれない。置いていかれても持ち主を探せる翼が、あっちは欲しいのかも。
雨を含んだぬいぐるみの目が、こちらを向いている。
ないものねだり仲間じゃん。私はぬいぐるみと目を合わせ、苦笑する。
足元でアマガエルがぴょこん、と跳ねる。
…雨もだいぶ止んできた。霧は少しずつ晴れ始めている。
そろそろ散歩も終わりにするか。
私は黒い翼を広げ、靄がかった空へ羽ばたいた。
花弁がふわりと広がるアネモネ。重たそうに首を垂れる鈴蘭。さりげなくちょこんと咲くたんぽぽ。甘い香りを凛と放つ百合…。
私の目の前には、色とりどりの花が並ぶ。
「どうぞ、好きなものを召し上がってください。お嬢さん」
この部屋に私を招待した紳士は、黒い外套をはためかせ、お辞儀する。
シンプルながら美しい形をした外套が、ゆっくりと瞬くと、品の良い紅橙のワンポイントがひらりと目立つ。
「ご親切にありがとう」
私は、口の先まで出かかったため息を飲み込みながらこう答える。
「では、良いお時間を。失礼します」
紳士は、黒い外套を翻すと、青空に向かって、席を外す。
残された私は、目の前に座る青年を見やる。
彼は、プラスチックのように透き通る素材に、アンティークものの額縁のように、縁を彩る赤茶の模様を描いた、見事な外套を纏っている。
小柄な身体をさらに縮こませ、困ったように俯いている。
彼が、意を決したように顔を上げ、口を開く
「こんにちは、モルフォ一族のお嬢様」
「こんにちは。アサギマダラの紳士様。お食事をご一緒に、なんて、こんな忙しい時に、ご迷惑だったかしら」
私が目を伏せつつ答えると、彼は虚をつかれたように私を見つめ、それから慌てたように首を振る。
「そ、そんなことはありません。お目にかかれて光栄です。ぜひ、遠慮せずにお食べください」
「ありがとう。私、お花は好きなの。どれも美味しそうで迷ってしまうわ。貴方はどれがお好き?」
彼は目を白黒させながら、慌てたように目線を走らせ、そして、答える。
「ぼ、わ、わたくしは、フジバカマが好きでございます」
「あらそんなにかしこまらないで。フジバカマ?私も好きよ」
彼は信じられないというように目を見開く。
私はここぞとばかりに二の句を継ぐ。
「あら、モルフォ一族は嘘なんかつかないわ。さあ、ご一緒させてくださらない?」
「わ、わたくしでよければ」
「もちろんよ、お食事を楽しみましょう」
…私と彼はゆっくりと食事を始める。
なんて幸せなひとときかしら…
「好きじゃないのに」
彼と別れ、帰路を歩く私の耳に言葉が止まる。
私はゆっくり振り向く。後ろには、私の御付きであり、従兄弟の、ジャノメが立っている。
「お前は花の蜜なんて好きじゃないのに、」
ジャノメは口元を吊り上げて続ける。
「甘い言葉を添えて、アイツを騙して、なんのつもりだ?」
私はジャノメに笑いかける。
「わからない?」
「私はあの方を手に入れるつもりよ」
ジャノメは顔を顰める。
「アイツとお前じゃ、好みも生態も違いすぎる。花の蜜が好きじゃないお前が、アイツと暮らせるとでも?」
私は微笑む。
「あら。そんなこと、愛の前では無力だわ。確かに私は花の蜜は好きじゃない。でもあの方は好き。だから好きじゃないのに、我慢できるのよ。大好物がなくても、あまり好きじゃないお食事でも。愛とはそういうものだわ」
ジャノメは不機嫌そうに吐き捨てる。
「お前にアイツは似合わない。死骸や腐乱した果実が好きな、お前みたいなやつにはな」
「あら」
私は首を傾げる。私が最も美しく、可愛らしく見える角度で、ジャノメを見つめる。
「貴方はそうじゃないの?」
ジャノメに背を向け、出来るだけ柔らかい優しい声で言う。
「貴方も私の血族よ。あの方と私たちは違うの」
何も言わないジャノメをおいて、私は蒼い外套を広げる。
「でも、貴方とは違って、私は諦めないわ。あの方に『好きじゃないのに、俺と出かけないでくれ』なんてバカなことを言った貴方とは違ってね」
私は青い空に飛び立つ。
好きじゃない花の甘い香りの中に、どこかから、ツンと据えた良い香りが漂ってくる。
私は、その据えた香りに向かって、蒼い羽を羽ばたかせた。