「もう、泣かないよ」
奴は、私を呼び出して、急に、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げて、そう宣う。
なにそれ…
私は唖然として唇を舐める。
何言ってんの?
奴は黙っている。こちらをジッと見返してくる。
一拍おいて、奴はぐちゃぐちゃの顔で笑ってみせる。
「もう何があっても泣かないから、私は大丈夫」
なんだよそれ、なんで私に?
「うん、そうだよね。でも言っておきたくて」
お前、愚図のくせに?
「愚図だから泣かないように頑張るんだよ」
それで?私に何して欲しいわけ?
「ううん、あなたに何かあるわけじゃない。ただ、泣かないって決めただけ、で、それが言いたかっただけ」
それがなんになるんだよ…
自分の声の、あまりのか弱さに戸惑う。
斜め前の床が濡れてる。奴の服が濡れてるからだろう。
それを見透かしたように、奴は屈んで、優しく微笑む。
「大丈夫だよ。嫌いになったわけじゃないし、あなたが悪いわけじゃない。どんなことがあったって、私はあなたが大好きだよ」
なんだよそれ。もう分かってるんじゃん
なにが、“何かあるわけじゃない”だよ。もう気づいてんだろ
…私がお前と二人で居たかったからって、お前を慰めるただ一人で居たかったからって、泣いてるお前を見たいからって、仕組んだってことを。
今までの、アレもコレも全部、けしかけたのは私だってことを。
「…なんだよ、それ…」
嗚咽と一緒に漏れた。なんで私が泣いてんのよ
「…大丈夫だよ、ずっと一緒に居るからね。大丈夫、大丈夫」
奴が私の背中を撫でる。優しく、何度も。
「大丈夫…大丈夫…」大丈夫…だいじょうぶ…
「…お前なんて、嫌いだ」…嫌いで…大好きだ……
奴は、それでも、まだ私をさすっていた。私が顔を上げるまでずっと…
怖がりな奴だったのだ、と思う。
アスファルトの道を、自転車で走る。
道の真ん中で歩いていた雀たちが、パラパラと前を通り過ぎてゆく。
危ないな、と思う。
でも彼らは轢かれるなんてそんな間抜けなヘマをせず、要領よく、地面スレスレを飛び去ってゆく。
最後の一羽が飛び抜ける時は結構タイヤ前スレスレで、こちらも緊張する。
そして、最後の一羽を見るたびに、アイツは怖がりな奴だったのだ、と思う。
学校に通ったことのある人なら誰でも経験があるであろう、クラス対抗の大縄跳び。
アイツはそれが、どうしても苦手だった。
ぐずぐずと首を上下しながら縄を見つめ、当然のようにタイミングを見逃して、後ろの奴に文句を言われ急かされて、思い詰めたように、縄に向かう。
そして、引っかかる。
アイツはそんな奴だった。
アイツはもともとスポーツ万能。
大縄以外の体育の時間は大活躍で、どんな分野であろうと1位を総舐めする。
「父さんがスポーツ好きなんだよ。家族全員でスポーツするのが夢だったとかでさ。おかげでウチは毎週スポーツ大会だよ」
体育のことを褒められた時、アイツはいつもそう言った。
でも、大縄だけはダメだった。
なんで大縄だけダメなんだ?と聞いてみたことがある。
「…まあ、人には一つくらい弱点ってやつがあるってことだろ?俺の場合はそれなんだよ。いやぁ、俺の同級生って、幸運だよな、俺の数少ない弱点が見られるんだから!」
アイツはいつも、そう言って、笑い飛ばした。
今ならわかる。アイツは怖がりだったのだ。
アイツは、大縄の時に後ろに並ぶ、“みんな”が怖かったんだ。
アイツは長男だった。弟も妹もいた。
でも、休日も平日の放課後もスポーツに打ち込むスポーツマンはアイツだけだった。
アイツの弟は、ゲームのスポーツの方が好きで、父親の反対を押し切り、自分の力でその道へ進んだ。
大したやつだよ、アイツは言った。
アイツの妹は、もっと勉強したがった。妹はアイツの母親と一緒に家を出て、第一志望の国公立大へ行った。
家族みんなの自慢だよ、アイツは言った。
アイツはずっとスポーツマンで、休日はずっと父親と過ごしていた。ずっと、ずっと、ずっと……
アイツは怖がりだった。そして、優しかった。
誰の期待も裏切れなかった。バカ臆病だったのだ。
雲の隙間から差す日が眩しい。
目を細めた隙に、カゴの中の牡丹餅がガタンと揺れる。
なあ、お前は幸せだったか?
アイツには絶対に聞けないことを、でも聞いてやらねばいけなかったことを、今更呟く。
それにしても眩しい日差しだ。雲に邪魔されて隙間からしか見えないくせに。嫌になるほど、涙が出るほど…
…なあ、一番の怖がりはどっちだったんだろうなぁ
アスファルトの道はまだ続いている。どこかで雀が、チュンと鳴いた。