いつだったか、母にとって私はどういう存在なのかを尋ねたことがあった。宝物だと、母は答えた。宝物って具体的にどんなものを指すのか、母にとっての宝物ってどのくらい大事なものなのかよくわからなかった。
そんな母とは今では折り合いが悪く、数年に一度連絡を取るくらいになってしまった。
今では私にも子どもがいる。子どもから同じ事を尋ねられたとき、私はなんて答えられるだろう。
#宝物
「そんなこと意味ないじゃない」
あなたはそう言う。
「そうかもね」
わたしはそう言って笑う。
わたしとあなたの会話はいつだって蛇行する川のようにあっちにいったりこっちにいったりと忙しない。あなたに少しでも多く笑って欲しくって、わたしはいつも遠回りを選んでしまう。あなたは不機嫌そうに眉を吊り上げながらも、結局はわたしに付き合ってくれる。
あと十年もすれば、二人で過ごしたささやかな時間のことなんかもうすっかり忘れてしまっているのかな。こんなに大切な気持ちがいつか価値を失ってしまうのかな。
決して口にはしない言葉たち。あなたはなんて答えてくれるだろう。
#意味がないこと
黄昏時の空をカラスが飛んでいく。ただ一羽、群れもせずに。
私の息子は小さい頃から少食でよくつぎ分けられたおかずを残したものだった。流しの三角コーナーに捨てられた残飯は水を切って小さな透明のビニール袋に詰め込まれていた。その息子も既に成人し私たちのよく知らない街で暮らしている。好き嫌いする悪癖はいまだに治っていない。
そんな悪癖を持ったどこかの誰かの残飯を、糧にしてカラスたちは今日もねぐらに帰るのだろうか。
一羽のカラスはいつしか夕闇に紛れ、そして消えていった。
#哀愁を誘う
さぁ、この鏡を覗いてごらん。
戻れない過去の姿。
叶わなかった夢の残滓。まばゆい青春の日々。
なりたい未来の姿。
はるか遠くにかすみそびえる憧れ。輝かしい幻の日々。
愛おしい現在の姿。
隣にいる誰かの温もり。永遠には続かない愛おしい日々。
あなたの心に映るのは、どんな自分でしょうか。
#鏡の中の自分
思い出すのは、寝つきの悪かった日々のこと。
子供の頃、布団にくるまりながら眠れる気配のないまなこをじっと抑えつけて、外の風の音を聴いていたときのこと。親に隠れてゲームボーイをしていたときのこと。
学生の頃、面白くもない深夜ラジオを垂れ流しながら真っ白なノートのページを眺めていたときのこと。そっと抜け出して深夜徘徊を繰り返していたときのこと。
青年の頃、夜に眠ることを諦めて明け方まで顔も知らない誰かとチャットしていたときのこと。そうしてこの時間をせめてなにか建設的なことに使わなければと、静かに小説を書き始めたときのこと。
今は違う。
心は凪のように静かでいつだってすぐに眠りにつくことができる。あんなに波打っていた創作意欲も乾いて心の底でシミになっている。目の前の大切な人だけが、今は愛おしい。
かつてのような青臭くて瑞々しいことばを紡ぐことは、もうきっとない。
#眠りにつく前に