引越しの前日の夜のこと。
クローゼットの整理をしていると、桐の小さな箱が出てきた。
……あぁ、こんなものあったっけ。
そこにはずっと前に、これを貰ったときに読んだきり、一度も開かないままだった手紙がしまってある。そんなこといまの今まで忘れていたくせに。それを見た途端、当時の切実な想いの断片が込み上げてきた。
あんなに苦しかったのに、あんなに変わりたいって願ってたのに、今にしてみるともう戻れないその頃の切実さが懐かしく心を打つ。
きっとそれだけ真剣だったから。人生と向き合う必死さがあったから。
箱を開けると、真っ白なままの封筒が慎ましくちょこんと収められている。あの頃あの人の苛烈な感情に振り回されたことを思い出して、そのそぐわなさが可笑しくて少し笑ってしまう。
手紙は開かずにまたそのまましまった。あの頃の気持ちも、いまの気持ちも、そのまましまって、またいつか出会えたらと密かな願いを込めて。
明日、私は新しい街へと旅立つ。
#手紙を開くと
もうあの頃には戻れないって、思い知ったときってない?
そんなの当たり前でしょ、てあなたは言うのかもね。
でも、私にはある。
環境が変わっても、人間関係が変わっても、自分の在り方は変わってないような気がしてたから。
その時の自分がどんな感じ方をしたどんな人間かを思い出せる?
それを忘れていることすら忘れて生きている事を知って、あなたはどう思う?
そんな時なんだよね、あぁ、もう戻れないんだって。
例えタイムマシーンがあっても、きっとそのときの私だけが行方不明な世界に行っちゃうんじゃないの。
寂しいね。
せめて手を振るよ、そのときの私に、バイバイって。
#バイバイ
年が暮れていく。
一週間の今年を残して始まる冬休み。
今年の思い出に想いを馳せながら、もう手に届かない目標を横目に過ぎ去る時間をだらだら過ごすだけで新しい年になる。
何をしなくても訪れる新年を、どんな気持ちで迎えよう。
#冬休み
泣かないで、かわいい吾子よ。
過去も未来もなく、ただ今この一瞬だけを全力で生きる君よ。
君の一秒一秒が幸福に満ちた時間であれと願いながらその小さな身体を抱き上げるこの限られた時間は、私にとっても限りない幸福の瞬間なんだよ。
泣かないで、かわいい吾子よ。
君の笑顔を一分一秒でも多く見ていたいんだ。
#泣かないで
少しだけ身体が熱い。
ズル休みする気にもならないくらいの。
誰かに不調を訴えるほどでもないくらいの。
私の中にある、私だけの、この、微かな熱を。
私はこの僅かな時間、少しばかりもてあましている。
私以外の誰のものにもならないのに。
#微熱