あなたの傷になりたい。
柔らかい心に小さく爪を立てて、
じくじくとした痛みになりたい。
ふとした瞬間思い出して感傷に浸って欲しい。
ずっとずっと忘れないで。
「一緒に逃げようよ」
それは甘美な響きを帯びて私の耳に届いた。つい先程辛く、厳しい人生を歩むのが決定した私にとって悪魔の囁きだった。
「逃げるって、どこに?」
逃げ道などあるわけがない。決められたレールの通りに、家の為に。それが私の人生であるのに今更それを覆すことなどできるはずがない。私は諦めている。私の人生の全てを。だというのに、
「どこか遠く、できるだけ遠いところ」
「君の好きな所へ行こう」
なんて素敵な誘いだろう。私の人生にも、まだ希望があるのだと思わせてくれる強い声だった。己の根幹がぐらぐらと揺らいだのが分かって、思わず泣きそうになる。
「ねぇ、どう?一緒に行こうよ」
差し伸べられた手のひらは華奢で、少しばかり震えていた。しかし、私の心はもう決まっていた。
今まで積み上げてきたもの、これからの何もかもを投げ捨ててこの手を取りたいと思った。あたたかく柔らかな手のひらに私のそれを重ねた。
この先、どんな結末が待っていようと私がこの選択を後悔することは無いだろう。
一歩踏み出す。
隣を歩く彼女が優しく笑った。
眠りにつくとき、いつだって願っている。
『どうかこの、夢のような時間が
いつまでも続きますように』
そう思って眠るのに、世界は残酷で。
今日もまた、けたたましく鳴るアラームに
脳を焼かれるような心地で眠りから覚める。
そんな日々を繰り返している。
小さくて柔らかなあの温もりが。
私の手を握り返してくれる日は
この先もうずっとないという事に
打ちのめされて
音もないまま伝う一筋。
もしも"次"を選べるのなら、
あなたの知らない私で会いたい。
それでもまた、好きになってくれますか。