NoName

Open App
7/1/2025, 5:16:16 AM

 初夏の夕暮れ。ちりんと涼やかな音をたてる風鈴の下、岩融の隣は珍しく空いている。
「岩融」
声をかけるとパッとこちらを振り向き、ギザギザの歯を見せてニカっと笑う。
「主殿」
「ひとり?今剣は?」
「今剣は先ほど秋田殿に誘われてな。粟田口の皆と西瓜割りをしに行っている」
そう言って、一棟向こうにある粟田口の部屋の方へ視線を放おった。耳を澄ますとキャア〜という楽しそうな声が微かに聞こえる。
「岩融は行かなかったの?」
秋田が2人のうちの片方だけに誘いをかけるとは思えない。たとえ2人が一緒にいなくともどちらか一方に声をかけるとき、ぜひもう一方もと言うはずだ。
「おれは出陣の準備があったのでな」
確かに、出陣の命は出したがそれまでにはまだ時間がある。一緒に行かなかったことの理由としては少々腑に落ちない。「…そう」と言ってはみたものの脳内の疑問符が声と顔に出てしまっていたのだろう、すかさず岩融がガハハハと笑った。
「いやすまぬ。言い訳としては厳しかったな。…実は、今剣がここのところ塞ぎがちでな。おれが粟田口の皆に頼んだのだ。何か気晴らしになることを、と」
「もしかして、阿津賀志山への出陣が増えているから…」
阿津賀志山は今剣と岩融にとって辛い場所であることは承知しているが、遡行軍も政府もそんな都合はおかまいなしだ。初出陣のときの今剣らしからぬ取り乱しようと、岩融がそれをなだめてくれた旨の報告を受け、采配を振るう責任の重さを痛感した。しかし、敵が現れれば、部隊を向かわせるしかない。辛い思い出の場所だからと庇い、特別扱いすれば本丸内にいらぬ争いを産みかねない。
「そうやもしれぬ。が、主殿が気に病むことではないぞ。」
また顔に出ていたのだろう。岩融は私の不安をかき消すようにまたニカっと笑った。
「主殿のお役目はおれたちもわかっている。難儀することも多かろう。」