初夏の夕暮れ。ちりんと涼やかな音をたてる風鈴の下、岩融の隣は珍しく空いている。
「岩融」
声をかけるとパッとこちらを振り向き、立ち上がってギザギザの歯を見せてニカっと笑う。
「主殿」
「ひとり?今剣は?」
「今剣は先ほど秋田殿に誘われてな。粟田口の皆と西瓜割りをしに行っている」
そう言って、一棟向こうにある粟田口の部屋の方へ視線を放おった。耳を澄ますとキャア〜という楽しそうな声が微かに聞こえる。
「岩融は行かなかったの?」
秋田が2人のうちの片方だけに誘いをかけるとは思えない。たとえ2人が一緒にいなくともどちらか一方に声をかけるとき、ぜひもう一方もと言うはずだ。
「おれは出陣の準備があったのでな」
確かに、出陣の命は出したがそれまでにはまだ時間がある。一緒に行かなかったことの理由としては少々腑に落ちない。「…そう」と言ってはみたものの脳内の疑問符が声と顔に出てしまっていたのだろう、すかさず岩融がガハハハと笑った。
「いやすまぬ。言い訳としては厳しかったな。…実は、今剣がここのところ塞ぎがちでな。おれが粟田口の皆に頼んだのだ。何か気晴らしになることを、と」
「え?」
サッと血の気が引いた気がした。
「もしかして、阿津賀志山への出陣が増えているから…」
泳ぐ目で岩融を見ると、笑い声のする方に視線を投じながら、少し抑えた声で、言った。
「おれと2人きりでいると思い出すこともあるようだ。…良いことも、そうでないことも」
ちりりりと風鈴が鳴る。生ぬるいはずの夏風が冷たく感じて、自分が冷や汗をかいているとわかった。
阿津賀志山は今剣と岩融にとって辛い場所であることは承知しているが、遡行軍も政府もそんな都合はおかまいなしだ。初出陣のときの今剣らしからぬ取り乱しようと、岩融がそれをなだめてくれた旨の報告を受け、采配を振るう責任の重さを痛感した。しかし、敵が現れれば、部隊を向かわせるしかない。辛い思い出の場所だからと庇い、特別扱いすれば本丸内にいらぬ争いを産みかねない。でも…
「が、主殿が気に病むことではないぞ」
また顔に出ていたのだろう。ふらつきそうな足元にも気付かれたのかもしれない。岩融はそんな私の不安をかき消すようにまたニカっと笑った。
「主殿のお役目はおれたちもわかっている。難儀することも多かろう。なぁに、おれたちの強さ、主殿が一番解っているだろう?」
岩融の、審神者たる私を思っての優しさが、痛々しいのに嬉しい。
「…ありがとう、岩融。…ごめ」
「おおっと!それ以上は言ってはだめだぞ、主殿」
遮られた言葉は喉元で止まり、不安と謝罪の念が満ちた頬には岩融の指があった。歯同様に鋭い爪をしている岩融だが、その爪が触れないよう指の腹でそっと包み込むように触れている。
「おれたちの強さは力だけではない。心も強いものを持っている。だから大丈夫だ。主殿は心配することなく、この本丸で待っていて欲しい。笑ってな!」
そう言ってガハハハと笑う岩融の笑顔が、触れた指先が、とても温かくて、何だかほっとして、
「うん、…うん、ありがとう、ありがとう、岩融」
言いながら頬に触れた手を取り、こちらもそっと包み込むように握った。
「信じて待ってる」
「おうとも!」
握り返す岩融の手は力強く、早速にも私の期待に応えようとしてくれているようだった。
ちりんと風が風鈴を鳴らして、また私たちの間を通り過ぎて行った。岩融の白い戦装束がなびき夕暮れの色を纏ったカーテンのように優しく私を包んだ。
終
7/1/2025, 5:16:16 AM