『鏡の中の自分』 2023.11.4.Sat
※BL二次創作 『A3!』より 卯木千景×茅ヶ崎至
「鏡の中の自分に話しかけると、精神が崩壊するって話、知ってる?」
「藪から棒に怖い話でワロ」
出た、千景さんのこのモード。
弊社がこの涼しい顔をしたエースをこき使い過ぎたのか、はたまた俺達には言えない裏のお仕事とやらでMP削られたのか、なーんて……。
千景さんはときたま、なんとも形容しがたい空気を纏ってつらつらと喋り始めることがある。
「正確には鏡に向かって『お前は誰だ』って言い続けると、自分のことを自分と認識できなくなる、自分の顔でゲシュタルト崩壊を起こして狂っていく、って話なんだけど」
「さらに具体性を持たせて説明してきたよこの人」
知っているか知らないか、という話なら、ネットでは有名な話なのでもちろん知っている。都市伝説だー、とか、やってみた! とか、色んなもので脚色され肉付けされ、面白おかしく語り継がれているトピックの一つ。インターネッツという大海に漂う、ただの話題の一つに過ぎないそれ。
問題はその内容ではなく、このモードの千景さんが、“なぜ”その話題を選択したのか、だ。
「これは自分で自分の脳に強い自己暗示をかけているんだよね。つまり、一種の催眠術のようなもので……「せーんぱい。……すとっぷ」
俺はとっくに(具体的には『知ってる?』あたりから)身に入らなくなったゲームのコントローラーを置き、自由になった指を千景さんの唇にそっと触れさせる。
指の腹に伝わるふに、とした感触。皮膚を通して感じる体温。俺はこういうとき、「ああ、千景さんも血の通った、俺と同じ人間なんだな」とか思って、少し安心する。失礼この上ない。
この人にバレたら何を言われるか分かったものではないので、これは内緒だ。
俺の指が触れてから、石になってしまったかのように、ぴたりと動きを止めた目の前の人。俺は前触れなく指先にある唇を奪う。
触れるだけのキス。いつも先輩がしてくれるみたいに。安心させるように、体温を分け合うように、両頬を包んで、顔を上げさせて、おでこをくっつけ、鼻先を擦り合わせ、愛おしいと目で伝えながら、ありったけの愛を込めてキスを送る。
全部が全部、この人のやり方だ。
今更わからないなんて言わせるものか。
「お疲れですか、先輩。おっぱい揉む?」
「…………はぁ」
「ちょっと、ノーリアクションが一番ダメなんですよ」
「溜息はリアクションだろ」
「お、調子出てきましたね」
培った演技力を総動員。さらにちょっとの本音も混ぜれば、先輩にだって見破れない。内心心臓はばくばくなのだが、俺は“いつも通り”を演じてみせる。クソ生意気な後輩、口の減らない恋人。
そうやって、“いつも通り”を取り戻してもらう。
俺の、俺たちの知る、卯木千景に。
「……ごめん」
「うわ、ちょっと、明日大雨になっちゃうじゃないですか、やめてくださいよ」
「そしたら車で送ってやるよ」
「ガチ雨確定ワロタ」
不安を軽口で上塗りして、心配をキスで伝えて。
口を開けば憎まれ口、でもその合間にたくさんの口付けを送る。
石化の呪いがようやく解けたのか、のろのろと腕が腰に回る。ゆっくりと抱き寄せられ、ようやく向こうからキスが返ってくる。
「ありがとう、茅ヶ崎」
「大雪確定演出キタコレ」
ハローハロー、鏡の向こうの先輩。貴方の名前は卯木千景。MANKAIカンパニー春組所属、大手商社勤務、27歳独身。春組のおじいちゃんで、カンパニーのみんなが大好きで、クソチートでゴリラな俺の先輩。……そして俺の恋人です。
見失っても何度でも、教えてあげるので、ここに帰ってきてくださいね。
特に告げるわけでも無く、心の中でそっと呟く。
――今夜は先輩のベッドで寝よう。
『眠りにつく前に』2023.11.3.Fri
※BL二次創作 『A3!』より 卯木千景×茅ヶ崎至
眠りにつく前に、茅ヶ崎はなぜだか毎日、律儀に声をかけてくる。
「今日も社畜おつでした」
「明日お昼あそこ行きましょ」
「週末は推しイベが……う、はい、片付けます」
「先輩、今日はお疲れでした? ラスボスのオーラ出てましたよ」
「は〜、最近夜は寒いですね。先輩は寒いの平気そうですけど。ゴリラだからか……いや、なんでもないです」
「おやすみなさい、千景さん」
他愛もない話。本当に、あっても無くてもいいような、内容のない会話。たまに眠気が限界なのか、むにゃむにゃ言っていることもある。喋ってないでさっさと寝ればいいのに。
それでも、毎日毎日、彼は俺に言うのだ。「おやすみ」と。それは、儀式めいた力を持って、俺の瞼を下ろす。
かつて“家族”が俺を眠らせてくれた魔法の言葉。
もちろんそんな話を彼にしたことは無い。だが、時折見せる鋭さなのか、はたまた特に理由は無いのか、茅ヶ崎はこうやって、俺の柔いところに触れてくる。
おやすみ。おはよう。いってきます。いってらっしゃい。ただいま。おかえり。
それらの言葉は、彼にとって、彼らにとっては、ごく当たり前の日常に馴染む普通の挨拶で。でも、俺にとっては“家族”を感じることの出来る一パーツなのだ。
茅ヶ崎の声が耳を打つ。
俺は目を閉じて、口を開く。
「おやすみ、茅ヶ崎」
眠りにつく前に、呪文を唱える。
今日も悪夢は見ずに済みそうだ。