【cloudy】
くもった水の中で懸命に息をしながら、彼は泳ぐ。
キッと周りを見ると、あいつは弁当なんぞ食っている。あいつは貝のようにふたをして寝ている。澱んだ流れに気づかずいい気なもんだ、陰気なやつらめ。
そんな彼を見ていて、私は思いついた。
私はそれをよく見えるように整えて、順序立てて、彼の言語に翻訳して返してみた。彼は顔を上げてそれを見つめ、いつしか親鳥にすがる雛のように後を追ってきた。会話を通じてこの汚れた水にむきあい、そのうち自分で作り上げた完璧なこの物語がおしえていることに気づく。この汚れた水から飛び立つ時がきたのだと。彼は濁った水面をさらに波立たせて、意気揚々と、空へと飛び立っていった。彼の後ろ姿は明るい光に照らされ、逆光で私たちからは表情は見えなかった。ここじゃないどこか、彼が自分に相応しい場所を探す旅に出たことを私は喜んだ。
彼の呼気で濁っていた水は、いまは美しく透き通り、穏やかに流れた。彼を惜しむ者はいなかった。私は光を通して豊かになった水の中で深く呼吸をする。
時折彼から届く手紙に目を通してから小さくちぎり、よく噛んで飲みこむ。そろそろ私が親鳥ではないと気づいてもいい頃だろうか。
【心の中の風景は】
息子がジャングルジムにひとりでのぼったときの地上から見上げた空
雨の横断歩道
放課後の廊下に座り込んで読んだ手紙
一発芸で笑い転げた昼休み、ぞうきんと埃の匂い、焼却炉のけむり
ひとりぼっちで歩くまっすぐな坂道
友だちの部屋で朝まで寝ていた朝の枕の位置
人波、川の水音、擦れる草、
無邪気に歌った文学的なあの歌
絵を描くのが大好きなのに、水彩画は苦手だった
【涙の跡】
心を尽くした言葉、じんわり温かな想い、
隠されたままの真実、
果たされるべき約束、
すべてはあなたの名誉と生きた証
恋慕と憐れみと淋しさと微笑みと
涙がおちるほど愛おしく
苦しくなるほど愛らしい
古い時代のひとびとはそれを「かなしい」と表現した
あなたという星の軌道
思うほどに眩しく、恋うほどにひそかに
あこがれ、焦がれ、守るように
あなたのかなしみの跡をたどる
その時私は涙を流すだろう
【もしも過去へと行けるなら】
あの日のあの時、あの判断が分岐点だった
なんて思い出せる分かれ道、みんなある?
無数の判断、無数の選択の結果が今だ
無数すぎて、もはや思い出せないんだが
あ、そうだ、仕事してわかったこと、
仕事の範囲が広がってくると、
細かな処理のひとつひとつを覚えていられないことがある
全部印象的だから覚えていますよ、なんて理想だけど、理想通りにはいかないことがほとんどで、それ私が処理しましたっけ?という現実にゲンナリする
けど、忘れていても、その都度、ひとつずつ、熟考して判断を間違えないよう処理を続けていれば、
ゴールテープを推定しなくても然るべきところにゴールするのだ
これはとても大切で重要な真理だ
今は過去の集大成だ
今の自分を好きでいることが、過去の自分をつくる
今が未来をつくるんじゃない、今が過去をつくるんだ
【true love】
茹だるように蒸し暑い夏の
風が出てすこしほっとする夕暮れに
西の山並みのグラデーション、
稜線をオレンジに染める太陽
眩しく輝きながらしずかに沈んでいくその先に
まっしろで穏やかな懐かしさ
恋しい
あなたが私にくれた時間、
無邪気な笑い声、屈託のない笑顔、
消えていったもの、戻らない時間、
愛おしくて、満たされていて、
幼かった私を思う
だれもないていない、
だれもかなしんでいない、
私が手を伸ばしたら誰かに届く
あぁ、なんてありがたいんだろう
明日私は事故にでも遭うのかもしれない
突然、目の奥から波が来て、息をとめる
そうか、
これがしあわせというものか