「ひとりの時間がほしいんだ。」
彼が申し訳なさそうに目線を下に向けながら、言った。少し色素の薄い黒髪が美しく反射している。出会った頃よりもだいぶ髪が長くなっている。手入れしない黒い髪も、言うことを聞かなさそうな癖っ毛も、私の好みだ。
「んー、ふうん。そっか。」
否定も肯定もないずるい相槌をして、私は抱えていたくじらのぬいぐるみを揉み込んだ。くじらは突然のマッサージにさぞ驚いたであろう。しかし、私の手業は止まらない。彼は、施術中の私に何の構いもなく話を続けた。どれだけ私のことが大切か。必要か。それでも、それと同じくらい自分にひとりの時間が必要なんだ、と。一生懸命に、丁寧に、子どもに言い聞かせるように、都合の悪いことから逃げる私の心に少しずつ言葉を染み込ませる。くじらは来月のマッサージの予約をして退店した。彼の話も一区切りついたらしい。私は、ふっと立ち上がり、彼に聞く。
「コーヒー牛乳飲む。飲む?」
「あ。」
「飲む?」
「ああ、うん。飲む。」
「うん。」
歯切れの悪い会話だ。グラスに氷を入れて、牛乳を注ぐ。シロツメグサのハチミツを入れてよく混ぜた。そして牛乳から顔を出す氷を伝わせアイスコーヒーを注ぐ。うまく二層になった。
「すごい、上手だね。」
「ハチミツを入れてうんと甘くしたよ。ストローで混ぜたほうがいいかも。」
ほんとだ、おいしい。と彼は嬉しそうに言った。彼は甘ければ甘いほどおいしいと言うのだ。カランカランカランとストローを回して、彼はごくごくと喉を鳴らした。私も沈殿する牛乳をそのまま飲んだ。ほんとうにすごく甘い。
「ひとりの時間、頑張って用意するよ。寂しくても我慢する。ずっと一緒にいたいけど、でも永く一緒にいるほうが大事だから、きみに必要なものを守りたい。」
私もストローを回した。私の無邪気が彼を掻き乱すように、グラスの中では簡単に甘いコーヒー牛乳ができてしまった。
【大事にしたい】
月明かりがレースカーテンをすり抜けた先で、人差し指の先と人差し指の先が重なる。琴線が張るような緊張がその面いっぱいに広がり、簡単に離れるはずなのにもう一生離すことができないような気がする。実はもう繋がってしまっているのかもしれない。この指先が離れたらこの世界が終わってしまうかもしれない。僕がこの小さな居場所について真剣に考えていると、彼女の指が意志をもって動き出して指先が離れた。僕の夢が一瞬はらはらと夜の暗闇に溶けて、その隙に君は僕の手を握り締めた。心臓がぎゅっと痛くなり、僕も強く握り返す。閉め切った窓からは、車の走行音が途切れ途切れに聞こえるし、時折り男や女の声も聞こえた。でも僕はこの世界に、僕と彼女しかいないような、他のものなんて何もないような気がしていた。違う、多分これは願いだ。僕の欲張りな願い。僕と君以外のものが全てなくなって欲しいんだ。君以外なんにもいらないって、ほんとうの意味で言えたらどんなにしあわせなんだろう。いや、いまだってしあわせなんだ。僕はしあわせで、しあわせで、たまらなくしあわせで、この時間が終わることが怖いんだ。ずっとしあわせでいたい。だから、はやく死ななくちゃって、君といるときは薄ら、ずっと思ってしまうんだ。
【時間よとまれ】
その光の粒は、ここにしかない生活でできている。隣のそれも、遠くのそれも。あれもこれも。どこにもない、でも大したことのない。月並みの生活。僕は誰にも見つからないよう、マンションの明かりを消した。
【夜景】
あれはね、ひとの手が加わっているから美しいのよ。
【花畑】