『紅の記憶』
あの人のルージュを勝手に使った。
14歳になった春のことだった。
あの人が思っていたよりも早く帰ってきたものだから、
私はそれを隠すことができなかった。
紅くなった私の唇を見てあの人は、
少し目を見開いて驚いてから、
嬉しそうに微笑んだ。
いつか娘がメイクに興味を持って、
自分のメイク道具を勝手に使っちゃって……
なんてのをずっと夢に見てたの。
あの人は知らない。
私がどんな気持ちで貴方のルージュをつけたのかを。
私がどんな気持ちで貴方が普段使っているルージュに、
自分の唇をつけたのかを。
知らないんでしょう。そうでしょう。
私を娘のように扱うあの男は、
私の気持ちなんてこれっぽっちも分かっちゃいない。
『終わらない問い』
どうして死んでしまったの
どうして死んでしまったの
どうして死んでしまったの
生きていて欲しかった
どうして
どうして貴方がいない生活はこんなにも侘しいのだろう
どうして貴方がいないのに私は生きているのだろう
どうして
なんで
何の為に
『秘密の箱』
秘密の箱に詰めてしまった。貴方のこと。
もう目に入れたくはないから、
もう耳に入れたくもないから、
全部隠して見えないようにしようと思って、
箱に詰めてしまったの。
初めはやっぱり開けてしまおうかとも思った。
何度も閉じた蓋を開こうとした。
でもその度に我慢して、我慢して、我慢して、
いつの間にやら開けようと思うこともなくなっていた。
そうして秘密の箱は忘れられた。
秘密を知るたった一人の少女から忘れ去られた秘密の箱は、もう誰の記憶にも残っていない。
箱に詰められた彼の人がどうなったのか、
一体何処に隠されてしまったのか、
誰も何も知る由はない。
『夏草』
君の背よりも高い高い緑を掻き分けて掻き分けて君を探した。
それは一種の隠れん坊だった。
けれどもここで君を見つけることができなければ、
もう二度と会ふことはないだらうといふ気持ちに駆られた。
焦っていた。
かんかんと照る夏の太陽の所為か、
いつまでも君が見つからない所為か、
僕の身体は既に水浴びをした犬の様に濡れていた。
汗が目に入る。口に入る。地面に落ちる。
早く君を見つけてこの腕に抱きたい。
ベタベタになって君は怒るかもしれないけれど、
君の体温ならいつだって感じていたい。
そんな思ひを抱きながら夏草を彷徨った。
『素足のままで』
素足のままで良いから駆けておいで。
踵の痛い靴なんか捨ててしまえ。
邪魔なもの一つない綺麗な道をあげるから、
君はただ力の限り地面を蹴って走り続ければ良い。