濤無

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9/29/2023, 5:30:08 PM

静寂に包まれた部屋


カリカリカリカリ。



雪が降る季節、僕は部屋で独り、
小説を書くのがもっぱらの日課であった。

こたつにこもり、うつ伏せになって、
手を何かと動かすさまは
まるでカタツムリのよう。

かつて、妻が、笑いながらそう言っていた。


一昨年妻が亡くなってから、
この部屋は僕の音しか聞こえない。

テレビは嫌いだし、音楽を聞く趣味もないので、
僕の耳は、人間機能の電源をオンにしていても、
大して効果がないときている。

今の僕には、執筆のために動かせる手と、
原稿を見られる目さえあればいい。

カリカリカリカリ。



そういえば、妻が生きていた頃は
掃除機の音がうるさかったなあ。

キレイ好きの彼女は、
週に一回掃除機をかけるのが
おきまりになっていた。

そんな短い間隔で掃除機をかけても、
取るゴミもホコリも無いだろう、と僕が言っても、
こつこつやるのが大切なの、と言い返していたっけ。

敷き布団もたびたびベランダで干していた。
パン、パンと敷き布団を叩く音は、大いに僕の執筆意欲の妨害になったのを覚えている。

彼女がその日自分が見たことを僕に話すときも、
声はとても大きかった。
何度も何度も飽きずに楽しそうに話すものだから、僕もつい、手を止めて付き合ってやったっけ。



僕は、ふうっ、と一息をついた。

小説ってものは、本来書斎にこもって、高価そうな椅子に座って、本に囲まれて書くものだろう。

寝転んで、こたつの中で書くなんて、
腰にも悪いし。


自分にそう問いかけながら、
僕は起き上がり、冷蔵庫に向かい、
麦茶をコップに注いだ。


飲み干したあと、
僕はベランダへと向かい窓を開けた。
空からは、雪が降り始めていた。

雪の音、というものがあるらしい。

雪がしんしんと降り積もると、その場から音が消え、静寂に包まれる。

それを雪の音って言うのよ。


得意げに僕にそう話すあのイタズラな笑顔は、
今もありありと思い出すことができる。


でも、もう彼女の音はない。

僕は、小説家としてようやく食えるようになってからも、いつも居間で小説を書いていた。

騒がしい彼女の音にわずらわされながら、
小説を書くことが、何よりの至福のときだったのだろう。

雪の音が一面を覆い尽くす中、
僕は泣いた。










9/28/2023, 11:02:09 PM

別れ際の言葉



彼は、私たちを見送りに駅まで来てくれた。
それだけで、私も優一もうれしかった。

夏の終わりが近づいているのだろう、
あれほどやかましかったセミたちの鳴き声も
今はまばらで、すずしい風の音の方が耳にすうっと染み込んでくる。

セミは、たった1週間しか生きられないという。

なんて儚いんだろう。

私がもっともっと幼いころ、
おばあちゃんに聞いたことがある。
『なんでセミは、たった一週間しか
 生きられないの?』

おばあちゃんはけたけたと笑いながら
『生きられないんじゃないんだよ。セミさんは一週間せいいっぱい声をあげることを選んだんだよ』

私たちと彼が出会ってから、今まで、同じ一週間。

最初の数日は、どこかよそよそしくて、
でもそれからは、本当に楽しかった。
花火を見て、海に行って、自転車に乗って、
探検をして…。
私たちより背の高い彼は、とても頼りになった。


最初の数日、最初の最初から、
同じようにできたら良かったのにな。


「発車します」

車掌さんの声が、思い出を振り返っていた私を突き破る。

私は、隣にいる優一の方を見る。
優一は一瞬ぎょっとしたけど、すぐに私が何を言いたいか理解したみたいだった。


私たちは、セミみたいに一週間で終わらないよ。


「ねえ!」

彼は、目のピントを私に合わせたように
じっと見つめてくる。

「また会おうね!」

これで終わりはいや。
きっとまた、約束すれば続くはずだもん。
約束しなきゃ、それで終わりなんだもん。

彼が、なんと言えばいいか口をモゴモゴしているのを見て
優一がたたみかけた。
「オレたち、またここに来るから!
絶対に来るから!だから、お前もいろよな!」

電車が動き出した。
私と優一は、構わず窓から乗り出して叫ぶ。
「きっと、じゃないぞ!絶対だぞ!」

彼は足を少し動かしたが、
すぐに立ち止まる。
だめだ、だめだ、立ち止まらないで。
終わっちゃうのはいやだ。

「1年後も、5年後も、10年後も、夏はまた来るんだから、オレたちも絶対また会おうな!」
「また、あの海に行こうね!」
「また花火を一緒に見るんだぞ!」
「また、面白い話を聞かせて!」


一度走り出した電車は止まらない。
私たちと彼の距離もどんどん離れていって、
彼の姿はどんどん小さくなっていった。

動き出してから駅を離れるまで、
何秒だったんだろう。

ほんの一瞬のようにも感じたし、
まるで時が止まったようにも思えた。


あのとき、彼は泣いていた。
いつも仏頂面で、何を考えているかわからないような、そんなビー玉のような瞳をしていた彼は、
目からポロポロと涙を流していたのだ。

「ああ!また!絶対に会う!約束だ!」


彼が、あんなに大きな声を出したのも初めて見た。
いつもキマっていた髪型も少し乱れていて、
その全てが初めて見る姿ばかりだった。


電車の中で、私と優一は、目を合わせながら
同じ決心を固めていた。

また、絶対にこの村に来る。
来年も、再来年も。

私たち3人の思い出は、
一週間で終わるわけない。
もっともっと、長生きして、
大きなものになるはずなんだ。



また来年。
そんな言葉を心の中でつぶやき、
私は電車とともに夏を通り過ぎていった。