🐥ぴよ丸🐥は、言葉でモザイク遊びをするのが好き。

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8/28/2022, 11:22:11 AM

024【突然の君の訪問】2022.08.28

家の中にトンボが入ってきた。布団でも干そうと網戸をあけたすきに、すっと、オニヤンマが。
ヤンマは部屋の中をしばらくぐるぐるしていたが、そのうち、あけたはなしたままの網戸から出ていった。

これは、亡くなった人がこの世を懐かしんでやってきてるんだよ、と親からは習ってたけど……そうだ。今日は君の命日だったか。
突然の君の訪問。おいかけるように、ベランダに出る。

はるかな青空。そして、一片の白い雲。

8/27/2022, 2:49:45 PM

023【雨に佇む】2022.08.27

今日は土砂降り。そんな日にかぎって病院の予約がはいってて。ただでさえ気が重い体の上に雨合羽を着て、原付にまたがり、エンジンをかける。
交差点のはるか手前では、首周り、手首周り、足首周り、全方向から侵入してくる雨滴の容赦なさに耐えながら、一心に青信号を待って、雨に佇む。
そこは、路地で。隣で、排ガスをふかしているのはワンボックスカーで。そうでなくても、肩身が狭い思いをしていのは、原付なのに。道沿いの民家の壁ギリギリにむかって、上半身ごと車体を傾けた。

帰りにも、また、同じ路地で、同じように。濡れそぼつことになるんだろうか。

のろのろと動きはじめた車の列に足並みをそろえながら、わざわざそんなことをかんがえている。うらぶれた気持ちが、加速していくだけなのに。

8/26/2022, 1:02:50 PM

022【私の日記帳】2022.08.26

日記、といわれるものは苦手だった。宿題で日記がでたら、「今日はとても楽しかったです」とかいて、「出来事や気持ちを具体的に書きましょう」と、いつも注意されるようなタイプの子どもだった。
とうぜん、大人になってからも、わざわざ日記なんて書く気もおきなかった。
だから、私の日記帳、といえるものは、人生の中で、小学校のとき、日記指導に熱心だった先生が担任だったときの、2年分、しかない。

いまでも日記は何故か書けない。メンタルヘルスケアのためにもつけたほうがいいのだけど、がんとして、手も心も動かない。きっとなにかから目を逸らしたい気持ちが、じゃまをしているのだとおもう。
とはいえ、このアプリとは相性がいいようで、こんな私でも、毎日なにかを書き記している。日記ではないけど、こんなふうに心模様を記したりして、日記のような役割をはたしてくれている。あえていうなら、ここが、私の日記帳、っていうことになるんだろうな。

いま思い出しても、小学校のときの、週に一回必ず提出の日記の宿題はつらかった。そのときの自分には、大人になった自分が、まさかこんなふうに毎日なにかを書き記せるようになってるなんて、想像もできなかった。きっと先生にも、予想外のことのはずだ。
すでに年配の先生だったから、もうとっくに亡くなっていることだろうと思う。先生はもういない。だけど、その指導の成果は、いまこうして、フリック入力に忙しい私の指先に生きている。

8/25/2022, 11:50:08 AM

021【向かい合わせ】2022.08.25

なにかのときに、朝日の画像検索をした。これがいいな、と選んだ画像のキャプションを見たら、夕日だった。それなら?、と疑問がわき、夕日の画像検索をした。やっぱり、朝日がまじっていた。朝日も夕日も画像としてはまったく同じで、どちらもキャプションを見るまで区別がつかなかった。
私たちは毎日のように朝日と夕日の区別をしながら生きている。でも、その区別は、朝日なら朝日の、夕日なら夕日の、それぞれ固有の特徴を捉えて区別している、というわけでなかったようだ。ただ、時間帯と見える方向、それに依存して、朝日か夕日か区別しているにすぎなかったらしい。

それもそうだ。朝日も夕日も、地上から低い角度に太陽が位置している、という点ではまったく等しい現象なのだ。天球を南北に二分する子午線を対象の軸として向かい合わせになった、まったく双子の自然現象なのである。だから、だるま夕日があるなら、その向い合せのだるま朝日もある。それは、至極当然の自然の摂理だ。

にもかかわらず。人間は朝日と夕日を別個のものとして認識する。だんだんと明るく、暖かく変化していく朝日に希望を感じ、おもむろにうす暗く、冷涼に変化していく夕日に衰亡を見る。
折り紙をぴったりと真半分に折り重ねたように瓜二つの自然現象に、人間は、真逆の意味合いを付与する。写真に撮れば、たちどころに区別がつかなくなるというのに。それでも、真逆の意味を見出すのだ。

8/24/2022, 11:54:32 AM

020【やるせない気持ち】2022.08.24

今日のはホントのホントにホントのグチ。

うちの夫はかたずけができない。私も苦手なんだけど、頑張ろうとしてるだけまだまだマシ。夫は頑張ろうともせず居直るばかり。
夫の部屋はもうすでに、大事なもの、という名のガラクタ……ていうか、もはやゴミで溢れてる。それがいまや、みんなの共用スペースにまではみ出てきてる。このままみんなのくつろぎの場が、夫のゴミでだんだん侵食されて、こんどはどこに溢れていくのだろう。

私の人生、夫のゴミに悩まされながら終わってしまうの?、とおもうだに、やるせない気持ちになる。自分のものを片すのさえ精一杯なのに、夫のゴミの後始末まで?……ああもう、やってらんない。そんなくだらないことで私の人生、これ以上すり減らしたくない。

やっぱり、離婚しかないのかしら……ねぇ?

若いみなさん、覚えときなさいな。こうやって、パートナーは離れてゆくのよ。大事な大事な自分の人生をすり減らされるような相手なんか、いないほうが幸せだもの。
でもね、家事は苦手でもいいの。誰だって得手不得手はあるんだもの。たいせつなのは、苦手に向き合おうとする姿勢が、あるのかないのか。解決しようというハートが、あるのかないのか。

だって、ついていくなら、一緒に頑張る甲斐のある人がいいじゃない?

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