あの人と結婚して、番になってから数ヶ月。僕達の生活は順風満帆、とは言い切れないけれど、幸せで満たされた日々を過ごしていた。こんなにも愛おしい彼がすぐ近くにいてくれて。僕が作るご飯を美味しそうに食べてくれて。仕事で疲れているはずなのに、家事も手伝ってくれて。彼が休みの日には、どこか出かけようかって声をかけてくれる。あの人にとっては何気ない行為なのかもしれない。でも僕にとっては、改めて大切にされているんだって実感して、心の奥底から嬉しい気持ちでいっぱいになる。ただ最近は、少し変わっていて――
(……今日も遅くなっちゃうのか)
一通り家事を終えて、ソファーでくつろいでいた時。ショートメッセージで送られてきた文面を見て、僕は目を伏せる。そう、数日前から彼の仕事の帰りが遅くなっていた。いつもなら仕事が終わったらすぐ帰ってきてくれた。遅くなるとしても、はっきりとした理由を明記してくれる。だけど最近は違う。『すまない、今日も帰りが遅くなる』の一点張り。どうしてなのか気になってしまう。僕よりも良い人を見つけて、ご飯にでも行ってるのかな。それとも、もう僕じゃ満足出来なくなった……? なんて不安や嫉妬も渦巻く。けれど、なかなか聞く勇気も出なくて。『分かった。帰り気をつけてね!』なんて、今の感情とは裏腹の返信をしてしまった。
(どうしよう、番を解消したいなんて言われたら)
近くにあったクッションに縋るように抱きつく。何の取り柄もないオメガの僕と結婚してくれた。『お前以外考えられない、愛してる』って誓ってくれた。そんな彼のことを、僕は一生手離したくないのに。なぜだか、今だけ彼の背中が遠くにあるような気がしてならなかった。どれだけ必死に手を伸ばしても、指先が届かない。そのくらいに。じわり、とクッションに染み込む感覚。僕は嫌な予感を払い除けるように頭を振った。そして、自身の項にそっと手を添える。
(……そんなこと、絶対ない。今までたくさんの幸福を受け取ってきたから、感覚が麻痺していたんだ。仕方ないことだよ。彼も仕事で忙しいんだ。必ず僕優先、だなんてことはないよ。それに、生活を支えようと、一生懸命頑張ってるから……僕だって彼のことをしっかり支えられるように、努力しなきゃ)
でも今はなかなか前向きに考えることが出来ない。僕はソファーから起き上がると、おもむろに冷蔵庫へと足を運んだ。そして中身を確認してみる。
(あ、あった)
僕が取り出したのは、ジュースっぽい見た目をした缶のお酒。ゆずれもん味で、アルコールもほんの少しだけ。普段からあまり飲む方ではないけれど、スーパーで安く売っていたから、つい買ってしまった。……今日くらい、ちょっといいよね。気を紛らわせるにはちょうどいい気がするし。まだ彼も帰ってこないだろうから……なんてことを頭の片隅で考えながら、僕は一人テーブルについた。そして自分の内にあるネガティブな気持ちを全て流し込もうと、缶を手に取った。
それから少し経ち、酔いが程よく回った頃。玄関からチャイムの音が聞こえ、ふと我に返った。彼が帰ってきた! と思い嬉々として椅子から立ち上がる。だけど結果は大外れ。『宅配便でーす。荷物届けに来ましたー』なんて全然違う声が聞こえてきた。気落ちした僕は残っていた少量のお酒を全部飲み干し、不服そうに唇を尖らせた。まだ酔いが醒めていない頭で玄関まで歩いていき、荷物を受け取る。箱には彼の名前が書かれていた。然程大きくなく、それなりに軽い荷物だ。
(……なんか、きになるなぁ)
小首を傾げつつも、テーブルの上に置く。なんだか今は中身が気になって仕方がない。いつもならこんなこと、ないのに。ぽわぽわと酔っている状態では、上手く頭が働かなかった。そして気づけば封を切って、中を覗いてしまった。何が入っていたのか分かった瞬間、頬が赤りんごのように真っ赤になったのが分かった。心臓のドキドキが止まらない。
(これって――!)
(……今日も遅くなってしまった。だが、今日で無事に決めることが出来た。後は渡すだけだ)
けれど正直、あいつが喜ぶ顔がなかなか想像できない。何日も理由を秘密にして、帰りが遅くなっているんだ。連絡をする度に、彼は明るく平気そうに振舞ってくれるが、実際はそうではないだろう。画面越しでは悲しそうに眉をひそめ、寂しそうにしているはずだ。街の灯りに相反して、重く沈んだ心を持ちながら、俺は帰路を急いだ。
「――ただいま。今帰ったよ。遅くなってごめんな」
合鍵を使って素早く玄関のドアを開ける。しかし、声は返ってこない。普段であれば、すぐに玄関まで駆けつけて『おかえり。今日もお疲れ様』と、優しく労いの言葉をかけてくれるのに。今は静かで不穏な空気が漂っている。いつもと違う状況に、一気に不安が押し寄せてきた。リビングの明かりは……消えている。だが代わりに寝室の方の明かりはついていた。そこでハッとする。もしかして――俺は一目散に寝室へと向かい、勢いよく扉を開けた。
「おい、大丈夫か!」
どうか無事であって欲しい、その一心で必死に声を出した。そして彼の元へと歩みを進めた。そこで状態を確認できた時、言葉にならない衝撃が俺を貫いた。小さな寝息を立てて、穏やかそうに眠っていて一安心ではある。ただ驚いたのは、その服装だ。
(……後で絶対に似合うから着せてみたいとは思っていたが、何で今着ているんだ――!?)
淡いピンク色の薄い生地で出来た衣装。露出は少ないものの、ふわっとしたフリルが可愛らしく、胸元にあしらわれている大きなリボンが目を惹くデザイン。いわゆるベビードールというものだ。そのような格好をしている彼が、俺の衣類を大事そうに抱き締めて横になっている。まるで親が雛を温めているようだ。加えてほのかに香るのは彼のフェロモン。お日様のように暖かく、甘い花の蜜のような香りの中に、何だか少しアルコールも乗っている気がする。その香りに導かれ、彼に触れようとゆっくり手を伸ばした時。潤んだ紅藤色の瞳がそっと開かれた。
「あ……かえって、きたの……?」
「あぁ。ただいま。遅くなって本当にすまない。ずっと不安で心配だったよな」
「ううん、だいじょうぶ、だよ。おかえり、会いたかった」
俺のことを捉えるなり、幸せそうに顔を蕩けさせて抱きついてきた。そしてそのまま首筋に顔を埋めてきた。あまりに大胆な行動といい、これまでの流れといい、動揺するも内心では抑えきれない興奮が燻っていた。それに拍車をかけるように、彼は耳元で熱い吐息とともに囁いた。
僕のこといっぱい愛して――と。
「……ん」
「おはよう」
ちゅ、と額に口付けをされた感覚で、意識が覚めた。いつの間にか辺りは明るくなっていて、カーテンの隙間からは、キラキラと日光が差し込んでいた。外はすっかり朝になっていたようだ。それから隣には柔らかく微笑んでいる彼がいて、僕の身体には至る所に紅色の痕が散りばめられている。そこで僕は昨晩の行為を思い出し、恥ずかしさで思わず毛布を頭まで被った。
「……っふふ、どうした? 急に頭まで毛布被って」
「わっ、忘れて! 昨日のは全部、忘れて!」
「忘れられるわけないだろ? あんな可愛いおねだり、忘れる方が難しいな。それに、俺が通販で買っておいた――」
「わーっ! あれはちょっと酔ってて、それで……その……喜んで、くれるかな、なんて」
自分で言ったことでさらに羞恥心が募り、語尾がどんどん小さくなる。さらに毛布を被っているからか、モゴモゴした音質になる。その様子に彼はまたからかうように笑った後、急に真剣な声で「渡したいものがある」なんて言われたから、僕は渋々顔を出し、身体を起こした。彼が手に持っていたのは、黒色で縦に長い箱で、真っ赤なリボンが丁寧に巻かれている。
「これって……」
「開けてみてほしい」
そう言われ、手渡された箱の蓋を恐る恐る取ってみた。その中身に、僕は息を呑み込むと同時に、大きな幸せに包まれ、段々と視界がぼやけていくのを感じた。彼から受け取ったもの。それは美しいシルバーネックレスだった。中央には小さくも存在感を放っている、エメラルドがはめ込まれている。色んな感情が混ざって処理しきれない中、彼は落ち着いた声音で話した。
「今日で俺たちが結婚して半年だよな。だからそのお祝いで何かお揃いのものが欲しいなって思ってさ。サプライズしようと思って、ずっと内緒にしていたんだ。でもそれが、かえってお前を不安にさせたり、心配させたりしてしまった。本当に申し訳ないことをした」
彼の口から話される真実を、僕は黙って聞いていた。僕のことを喜ばせようとしてくれていたのに……あんなことを考えていた自分に嫌気が差す。僕も伝えなきゃ。これまでのこと。それから、今のこの気持ちも。僕は彼の手に自身の手を重ね、ゆっくりと口を開いた。
「ううん……って言いたいけど、本当は大丈夫じゃなかった。ずっとずっと、僕から離れてしまうんじゃないかって。番も、解消しちゃうんじゃないかって」
「っ……そう、だよな。本当――」
「でも、こうやってお祝いしてくれて、ちゃんと話してくれて。僕はとっても嬉しい気持ちで満たされているんだよ。だから、そんなに謝らないで。僕だって悪いんだからさ。勝手にあんな風に考えてて、ごめんね。改めて、僕のことを大切に、愛してくれてありがとう」
少し俯き加減に暗くなっている空色の瞳を、真っ直ぐに見つめてはっきりと伝えた。驚いたように目を見開いた後、「こちらこそありがとうな」と安心したように話した。徐々に彼の瞳が綺麗な空色に澄み渡っていくのを感じた。それからお互いに「一周年の時はどうしようか」なんて喋りながら笑い合った後、お揃いのネックレスをつけ合った。太陽の光を受け、胸元の宝石はこの先の未来を照らし出すように、キラリと輝きを放った。
〜(別題で失礼します)〜
貴方と一緒にいられるだけで
幸せいっぱい満たされる
初めて出会ったあの日から今日の今日まで
貴方でいっぱい埋め尽くされている
燃え滾る熱い眼差しの奥底にある優しい瞳も
心地よく残っているこの噛み跡も
僕よりも大きな腕で抱きしめて、手を握ってくれて
真っ直ぐに愛を伝えてくれることも
全部全部僕のもの
誰にも渡したくない。
お前と一緒にいられるだけで
幸せたくさん満たされる
初めて出会ったあの日から今日の今日まで
お前を絶対離さないって決めていた
謙虚なお前が素直に俺を求めてくれた姿も
脳まで焼き尽くすような甘く蕩ける香りも
俺よりも白くて綺麗な腕で抱きしめて、手を握り返してくれて
優しい声で伝えてくれる愛の言葉も
全部全部俺のもの
誰かに渡してなるものか。
何気ない日常生活、
小さな幸せと大きな愛と共に、
いつまでも歩み続ける。
――傍にいてくれて、ありがとう。
〜(別題で失礼します)〜
母から貰ったカンカン帽
真っ赤なリボンがついたカンカン帽
今日はどこへ行こうか。
いつも学校の放課後で遊ぶ公園、
ビーズみたいにキラキラ光る小川、
野良猫いっぱいの路地裏、
いつも一緒
この帽子と一緒
母から貰ったカンカン帽
すこし煤けた赤リボンのカンカン帽
今日はどこへ行こうか。
大きな観覧車が目立つ遊園地、
彼と共に眺める壮大な海、
街灯が煌めく大路。
いつも一緒
この帽子と一緒
母から貰ったカンカン帽
あのリボンはもう見えないカンカン帽
今日はどこにも行かない。
ずっとここにいるよ
たくさんの思い出に浸ろう
いつも一緒
この帽子と一緒、
ビーズみたいにキラキラ光る小川、
野良猫いっぱいの路地裏
いつも一緒
この帽子と一緒
〜帽子かぶって〜
今日は年に一度のハロウィン。この日くらい、仮装している人々に紛れて君に逢いたい、触れたい。彼が住んでいる号室の前に、ずっといる。だって、未練タラタラで捨てきれないんだもん。ベランダから街を見下ろす。たくさんの灯りがギラついていて、あまり好きじゃない。
(……あ、帰ってきた)
向こうから伸びをしながら歩いてくるのは、僕の好きな人。愛して愛してやまない人。前まで幸せに暮らしていたのに。血が出そうなほど下唇を強く噛む。徐々に近づく距離。僕は耐えきれなくなったように、そこから歩き出し、手を伸ばしてしまった。
「おかえり、待ってた――」
よ、と言い切る前に彼は完全に無視して、僕のことを素通りしてしまう。泣きたくなったけれど、何とか我慢して一緒に歩き出す。彼だって、楽しそうな笑顔が好きって僕に言ってくれた。鍵を開け、ドアが開いた瞬間を見計らって、即座に中へ入る。
「ねぇねぇ、今日はハロウィンなんだってね。すごく街が賑やかそうでさ。でも僕は君がいればどんな日だって……」
「んん……なんかやけに今日は寒いな。あれ、俺ちゃんと部屋の窓閉めたよな」
やっぱり、聞こえてない。うん、そうだよね。仕方ないよね、知ってるよ。会話することが出来ない、手を繋ぐことも出来ない、抱き締めてもらうことなんて尚更。彼と逢えて嬉しいはずなのに。勝手に涙がこぼれ落ちて、地面を濡らす。そんな中で彼は電気をつけてリビングへ入り、ソファにスーツとバッグを放り投げるように置き、とある場所で足を止めた。それは――僕たちが一緒に撮った写真の数々が置いている所。遊園地、動物園、水族館。お互いの誕生日をお祝いした時。一つ一つが小さな額縁に入っていたり、アルバムに閉じていたりした。僕がそっと彼の前に回り込んだ時。君は一枚の写真を手に取り、いつもみたいに軽く笑って言った。
「ハッピーハロウィン!お菓子をくれなきゃイタズラするぞー!……って、何言ってんだろうな、俺。もうお前いないのにさ」
写真を持っている手がふるふると震え出す。眉間に皺を寄せて、目には大粒の涙が浮かんでいる。いつもなら僕の前でこんな顔しないのに。でも、君も僕と一緒の気持ちなんだよね。
「もっと色んな場所行って、姿も見たかったのに……あわよくば今日の仮装だって……。早く、またお前に逢いたいよ……戻ってこいよ……」
「僕はここにいるよ。ずっと、ずっと君のことが大好きなんだから。身体が弱いからって、ネガティブだらけな僕と一緒に笑ってくれたの、大切な思い出なんだから……!」
思わず僕は彼のことを後ろから抱き締めた。今ここにいる君の身体と、きっと今しかいられない透けている僕の身体。温度なんて分かんない。彼が感じているのかも。こんなにも近いのに遠く感じる。でも絶対に胸に秘めている気持ちは一緒。それだけでも心が満たされていくのを感じる。
今日の仮装は『お化け』ってことで許してよ。まぁでも、来年も再来年も一緒かなぁ。でもまた逢いに行くから。絶対にね。
〜別題〜
あめだまひとつ、いかがですか
きれいなあめはころり、ころがって
ひびがいっぱいのは、すてられる
あまいみつがとろり、とろけても
みんなはそれに、ふれてくれない
わたがしひとつ、いかがですか
ふわふわしてるね、ゆめみごごち
ふわふわしてるよ、ぼくのからだも
だれかだいてよ
このからだ
こんぺいとうひとつ、いかがですか
イガイガ、ゴツゴツ
まるでぼくのこころみたい
チクチク、モヤモヤ
みんなのこころもそうなの?
いっしょうけんめいさそっても
ぼくはからっぽ、みたされない
ねぇ、おねがい、だれか
ぼくをだいて
あいをおしえて
〜別題〜