「虹が出てるよ」
恋人が呟いた。
私はその言葉に恥ずかしいくらい動揺して、つい彼女を凝視してしまったし、眠気覚ましに飲んでいたコーンスープの深皿は盛大にひっくり返った。
「え。あ、昨日、昨日の夜、雨、降ってたみたいだしね」
「うん。ついさっき晴れたのかな。運がいいね。素敵な一日になりそう」
彼女がカーテンを引いて「見える?」と微笑む。
青い空にはたしかに虹がかかっていた。
「あっ、え......、うん、見えるよ」
違う。
違うんだ。
本当は、こんなことを言いたいわけじゃない。
なのに、口を開こうとすると、空気の搾りかすみたいな音ばかりが漏れる。彼女はスープを飲みながら、まるで見えているかのように「大丈夫だよ」と優しく声を掛けてくれる。
私は耐えきれず、とうとう号泣した。
大の男がみっともなく、涙を止めることが出来なかった。
嗚咽を堪える。
声も無く袖に顔面を押し付ける。
「ごめんね」
ほら、まただ。
その目は何も映していないくせに────いつも、まるで見えているみたいに私の心を読み取ってしまう。
ことん、とお皿を置いて、彼女がテーブルごしに手を伸ばす。一瞬躊躇った後、その手を強く握りしめる。
どちらかが手を握りたい時は、必ず相手は応える。
二年前、病気で視力を失った彼女との約束だった。
朝の白い光がフローリングを照らす。
空気清浄機の稼働音と、少し離れた位置から洗濯機の音だけが響く。
「今朝ね、私早起きだったのよ。テレビが、この地域全域で見事な虹が出ているって言ってたの。もう消えてしまったかもとも思ったんだけどね」
「み、.....見えたよ。ありがとう」
「泣かないで。私、嬉しいの。あなたが虹を見て喜ぶ顔を想像したの。その時の嬉しさなんて、実際の虹以上だわ」
「.....うう、ふっ、ぐす」
「ああ。ようやく音を出してくれた。ねえ、あなた。あなたは私にとっては虹のはじまりみたいなものよ。どうかわかって」
私にとったってそうだ、と私は息からがらに呟いた。
「暑いねえ」
ぐでん、と寝そべった涼がシャツの裾をはためかせながら呟く。居間から廊下に向かって突き出した足も風を呼び込もうと揺らしており、万全の体制である。
じーゎ、じーっ、と蝉の合唱が空気を揺らす。
居間で宿題をしていた熱実はペンを置く。
叔父さんが置いていったオレンジジュースをズゴゴ、と吸い込み、首を傾げる。
「そんなに暑くないよ」
「えーっ。いや、それは嘘やわ。今30℃近いで」
「ほんとだよ。なんて言うのかなあ。気分が涼しいっていうか」
「気分じゃ乗り越えられない深刻さやって」
「ほら、風鈴がひっきりなしに鳴って、畳の香りも凄いじゃんか。暑いっちゃ暑いんだけどじっとりしてない」
涼は納得できない、というように真っ白な脚をばたつかせた。熱実は傾けた首を戻し、再度ストローを吸い込む。
あ。
ジュースが切れてしまった。
氷のとけた冷えた無味が喉を滑る。
沖縄の平屋は、日頃東京のマンションに住む熱実からすると異様なまでに広い。冷蔵庫に行くことすら一手間だ。
空のコップを二つ掴んで立ち上がる。
結露した水滴に掌が濡れた。
「すーちゃん、ジュースいる?」
「いるーっ。あ、待って、うちも一緒に行くわ。何があるんやっけ」
「えーとね、なんだったかなあ。オレンジと、ファンタと、牛乳かな」
「牛乳ってなんやそれ。みーちゃん、たまに天然さんでかわええわ」
涼はころころと笑った。
二人は従姉妹だった。
東京と大阪に住む二人が会うのは、沖縄の実家に帰省する夏休みと正月だけ。しかし、同い年で同性の二人は姉妹のように仲が良かった。
半袖
熱実からコップを受け取って、「おおきに」と歯を見せる涼に、内心、あんたこそかわいいよ、と言いたくなる。
シャキシャキ喋って、愛嬌たっぷり。
活動的なのに、肌は日焼けしていなくて、赤ちゃんみたいにもちもちだ。
風鈴のように軽やかな涼が羨ましかった。
「え、てか待って。みーちゃん長袖やん。ギャグ? 待って悔しい、自分のツッコミ遅かったわ」
「いや、これは別にギャグじゃ......。屋内だし、意外と涼しいんだよ」
ファンタを注いだ涼が、
手渡そうとしてギョッと目を見開いた。濃い紫色が暈をましていく様を眺めながら、どれくらいまで注ごうか少し思案する。
「嘘やろーっ。あ、でも、確かにみーちゃん汗ひとつかいとらんなあ。東京の美人は汗かけへんのかな」
「あはは。違うよ、そんな」
「うちなんか暑がりでさ、もー6月くらいからずっと半袖や」
「ふふ。いいじゃん、半袖似合うもん。私、かわいい夏服持ってなくてさ。それもあって春服でずるずるきちゃうの」
うん。
もう、限界まで入れてしまおう。
崖っぷち、表面張力一歩手前まで粘った熱実は満足して蓋を閉めた。冷蔵庫から一瞬漂った冷気にうっとりとする。
長袖で無理はしていないが、確かに少し暑い日ではある。
「あ!せや!」
「えっ?」
涼がパン!と手を叩いた。
驚いて少しジュースが零れてしまう。
やっぱり欲張りすぎたな、と思った。
涼はすぐに濡らした布巾を持ってきてくれた。
床にかがみこんで、額をつきあわせるような体勢で目を合わせる。
「ありがとう」
「ううん、うちこそ驚かせちゃってごめんな。っていうのも、ビッグな閃きがおりてきてんよ」
「閃き?」
よくある茶色の瞳を、こんな鮮やかに輝かせられるのは涼だけだろう。数秒、見蕩れる。
涼はもったいぶって溜めたあと、嬉しそうに発表した。
「ショッピングに行こう!」
「......、え!」
「そんでさあ、お互いに服を選ぶねん! なっ、いいやろ?」
「え、うん、いいね。楽しそう。だけど、どこで」
「それはだいじょーぶ。近くにイオンできとってんよ」
床を吹き終わって、立ち上がった涼が本当に嬉しそうに声を弾ませる。熱実はしゃがんだまま、涼を見つめる。
「嬉しいわあ。みーちゃん、いつものmiumiu系もかわええけど、ストリートとか、も似合いそうやなあって実は思っててんな。ふふふ、覚悟してな。今日はマネキンになってもらうで」
涼は二人分のコップを持って、くるりとターンする。
体幹が強い彼女のターンはブレがなく、驚くことにジュースの水面はほとんど揺らがなかった。
「みーちゃん?」
涼のシャツにプリントされた、「BBQ!」と叫ぶ、カートゥーンポップなダックス犬が熱実を見つめ返す。
そのまま、自分の、ブランド名だけが入ったオフショルにちらりと視線を移す。
自分があの服を着ているイメージをしてみる。
正直、あんまり似合っていない。
滑稽ですらある。
「......うん」
しかし、やはり悪くない気もした。
少し口元を緩める。
熱実は立ち上がって、コップを受け取ろうと手を伸ばす。
「すーちゃんこそ、覚悟してよね」
にやりと笑い返して挑発する。
涼は呆気にとられたままコップを奪われる。
ぱちぱちと瞬いて、少し頬を染めた。
「や、.....美人さんに口説かれてもた。白い歯が眩しいわあ」
二人の手の中で、炭酸が楽しそうに弾けていた。