最近、何の話題か詳しくは覚えていないが、分かるは分けるだという記述を見た。確かに、新たなものを覚えたり理解しようとするとき、感覚として既存のものに当てはめるか、新しい枠組を作って宛てるか、人生の基本作業のような気がしている。
好き嫌いといえばよく食事が挙げられる。考えてみると、重要なのは栄養素をとることなのは前提として、食材や料理という無限大なものから好きを見つけられるのは幸せだ。食わず嫌いに関しては、幸せを見逃していると捉えられるが、それ以外、嫌いを押し付けられるのは純粋に辛い。そんな単純な理屈も、軽視してはいけないと思う。それを対人関係でよく実感している。好きな人もいれば苦手な人もいるし、嫌いではないが強い個性の人もいる――(遠い目)。
二十年くらい生きてきて、分かったつもりのことが多くある。けれど、その分け方、好き嫌いで自分が幸せならそれでいいのかもしれないし、時にはそのラベリングを疑ってみたら、より幸せに近づくかもしれない。ぼんやりとそんなことを考える深夜(知らんけどの意)。
街には色んな人がいる。楽しそうに話す三人の学生は何が楽しいのか。パンを食べながら歩く会社員は何を考えているのか。不思議でならない。
行き交う各々には人生があり、それら一つ一つから伸びた見えない糸が、人や建物なんかに繋がっているところを想像する。その膨大な網の中で、いつも取り残されているのが私だ。己から伸びる糸がわからないまま。
やりたいことはいっぱいあるけど
大半は理由をつけてやってないな
そんなもんですよね
今言えることとしては
文章力上げたくて
書く習慣を毎日やってます
でも今日はあんまり思いつかない
明日がんばろ
朝日の温もりは心地よいものです。白い光が優しく目蓋に降りかかり、光の温かさと私の温かさが合わさって、安心しながら、私は闇に戻ってゆきます。
私はよく、他人とくらべて生きてる 気がする
何事も、ぜーんぜん うまく できないからだ。
「どうして私はこんなこと も できないの?」
がんばるしか、ないね。
ネガティブな考え方も 悪いとは おもわない
足並みそろえるのが 「 社会 」の性質で
人間の得意分野 だから。
しかし 気づいた。気づいちゃった。
選択肢が 多 すぎる!
人生の岐路を、大事にえらんでも 自己中にえらんでも 適当にえらんでも たいへんさは、変わんない。
なんなら 押しつけられる。
私にできることは、
人の道に ケチをつけないこと。優しくすること。
ゴールは、みんなさま いっしょ なんだから。
「人生の岐路」