自分の力でぐんぐんと進んで行く
風の影響をもろに受けるから
追い風の時は気持ちがいいくらいに速く
向かい風の時は押し戻されないように
必死に足に力を込める
何から何まで自分次第だけど
徒歩よりも快適で頼もしかった
今ではもう
車ばかりを使うようになってしまったけれど
たまにはあの頃を思い出して
また旅に出てみてもいいかもしれない
【自転車に乗って】
健康的な生活を送ってください。
医者として私が言えることはそれだけです。
幸福な日々を送ってください。
友として私が言えることはそれだけです。
あなたの心はあなたのものですが、あなたの命はあなた一人だけのものではありません。
ここにまたあなたと会って他愛もない話しをしたいと思う者がいることを。
どうか忘れないでくださいね。
【心の健康】
放課後の音楽室。
わたしとあなた。
二人きりだけの世界。
そこで緩やかに奏でられるピアノ曲。
今のあなたの唯一のオリジナルらしいけど。
わたしとあなた。
知っているのは二人だけ。
いつかこの音楽は。
誰もが知るようなものになるかもしれない。
そうなったらすごいことだけど。
どことなく寂しくも思う。
君の奏でる音楽はあまりにも素晴らしくて。
独り占めしたいだなんて。
そんなワガママ。
絶対に言わない代わりに。
今だけはわたしだけのために弾いて欲しい。
と、そう願う。
【君の奏でる音楽】
その日はときおり風が吹く夏の日だったと思う。
陽射しは眩しかったけれど、時々肌を撫でていく緩やかな風が心地よくて。
その時はまだ4歳か5歳くらいだった私は、外を思いっきり歩く気持ち良さにウキウキしていた。
そうだ。確かあれは保育園で行われた親子遠足という行事に参加していた時だった。
私には同い年の双子の妹がいて、行事に参加していた私の母親は、当然ながら他のお母さんが自分の子どもと一対一になって行動するところを、子ども二人に親一人という、少し大変な状況の中で頑張ってくれていた。
遠足の道程がちょうど大きな川に架かった橋を渡る段階になった時、先生から親御さんと手を繋いで一列になってくださいという指示があった。私の家族はどうしても一人が列からはみ出してしまうので、いちおう双子の姉という立場だった私は、子どもながらに空気を読んで、母親とは手を繋がず、母と妹が手を繋いで歩くその後ろをついていくことにした。
最後尾には保育士の先生も控えていたし、母親もただでさえ初めての行事に参加して緊張もあっただろうから、大人しく後ろに下がった私をそのままにしていた。
小さな子どもの頃の記憶なのでその辺りは曖昧なのだが、皆がお母さんと手を繋いで歩くなかで自分だけがあぶれてしまったのを寂しいとか、羨ましいとか、そんな感情はいっさいなかったように思う。
そんなことよりも幼い私の興味を引いたのは、陽射し除けに母親が被っていた麦わら帽子の状態だった。風が少し吹いていたこともあり、母が被っていた麦わら帽子は外れ、首の後ろに回っていた。
帽子についた紐のおかげで飛ばされずに済んではいるが、風が通るたびにユラユラと揺れている。
最初は楽しくその揺れる帽子を眺めて歩いていたのだけれど、皆が並んだ列が橋の中央辺りに差し掛かった辺りで、どうにもその帽子の揺れが激しさを増した気がした。
そう感じた途端、私は気が気でなくなった。少しでも今より強い風が吹いたら、その麦わら帽子が飛んで行ってしまうんじゃないかと心配になったのだ。
だったら早く母親に教えるなりすればいいものを、その当時の私は何を思ったのか、もし帽子が飛ぶような事態になったら、空へ飛んで行く前に自分がキャッチしなければという、よくわからない使命に駆られていた。
どうしてそんな決意をしたのか、自分のことながら今でも謎である。
そして私が恐れていた通り、強い風が突然吹いた。
麦わら帽子は呆気なく空高くへと舞い上がり、さらには橋の欄干を越え、眼下の川面へと流れていった。
その自分の想定していなかったほどの速度で飛んでいった麦わら帽子に、私は自分の無力さに打ちのめされ、また帽子を易々と飛ばしてしまった後悔と共に大泣きした。
私の泣き声があまりにも大きかったものだから、麦わら帽子が飛んで行ったことに気付いた母が、帽子がなくなった事実のほうが飛んでいってしまうほど、驚いたらしい。
いま思い返せば、あれもいい想い出だ。
あの麦わら帽子はどこまで行ったのかな。
幼い私がまた驚いてしまうほどの、想定外な旅の想い出を作っていたりして。
【麦わら帽子】
「本当にいいんでしょうかねぇ」
バスの座席に腰を掛けた老婦人は、ゆっくりと口を開く。
「私だけバスに乗ってしまって。他にもこれに乗りたかった人がいたかもしれないのに」
わたしは彼女の顔を見つめながら首を振る。
「いえ、大丈夫ですよ。それにバスはまた次のがすぐに来ますし」
そうですか、それなら良かったと安心したような表情になった婦人に、わたしは穏やかに語り掛ける。
「どうでしたか、今度の旅は」
「ええ、とても良かったですよ。私には勿体ないくらいの想い出です」
「けれど、ずいぶんとご苦労もなさったのでは?」
「まあ、確かに楽しいばかりではありませんでしたけれど・・・・・・、それも含めて良い旅でした」
「それはそれは。そう言っていただけると、わたしもこのバスに貴方と一緒に乗ったかいがあります。・・・・・・あ、ご婦人。そろそろ到着するみたいですよ」
わたしが気付いたのと同時にバスが停止した。車体のドアが開き、婦人が優雅な所作で立ち上がる。
「では、これで。ここまで送っていただき、ありがとうございました」
婦人がバスを降りる前に、わたしのほうを振り向き丁寧に挨拶をする。
「いえいえ、わたしのほうこそ、ありがとうございました。どうか、良い、死後を。そして、来世を」
わたしが手を上げると、婦人が降り、バスの扉が閉じた。
わたしはわたしと運転手だけになった車内で静かに座席に座りながら、次の乗客を待つことにした。
【終点】