[静寂に包まれた部屋]空想三句
祭囃子隔てるように静寂の部屋
秋時雨一人の居間の静けさよ
聴くべからざる音聴く聴力検査
覚えている。
「人は、愛があれば何でもする」
夢見がちなあの人の、たくさんの戯言の一つに過ぎないのだ。
だがいつにない後ろ向きの表情が、言葉と一緒に記憶に焼き付いていた。
「人は、愛があれば何でもする――」
あの視線はどこに向けられていたのだろう。
今となっては聞く術がない。
自分の中にも答えはない。
「ルールは破るためにある」
というフレーズを初めて耳にしたのはいつだったか。
あまり魅力的な響きではなかったが、書道をかじって守破離の概念を知ったときに、それは私の心の中でほんのほんのほんの少しだけ魅力を得た。
ルールを知らなければ、破ることなどできはしない。
法帖を臨書し、プロや専門生の作品を眺めて、「ルールを知る」というのがいかに大きな知識と研鑽の積み重ねであるかを実感してから冒頭のフレーズを反芻すると、たいへん高い志だなと感じ入ることがないでもない。
……などとこじつけてみたが、やはり響きが何となく軽薄に聞こえていまひとつだ。
ルールの中で暴れてこそ生まれる美しさもたくさんある。
守破離の守を怠ってはいい仕事などできぬ、という自戒を込めて、
「ルールは守るためにある」
と記して締めることにする。
快晴は、数年前に引退した。
130年勤め上げ、いなくなった後は大丈夫かしらん?などと考えてみたものの、晴れがいればみんな十分のようであった。
快晴というのはまさしくよい天気だ。
一面紺碧の昼は胸をときめかせる。
一面群青の夜は心を穏やかにする。
さて、引退したことだし、砂浜で青の境界を眺めながら太陽を浴びてみようか。それとも木々の中で静かに夜空の宝石を鑑賞しようか。
本日の"雲ひとつない"晴れの仕事ぶりには、快晴翁も大変満足だ。
🍅🍅
まだ言葉になる前のもちょもちょした何か、あれは楽しいものだ。
何か言葉をあててしまえば、他のあらゆる可能性が閉じていく。
型抜きしてお出ししないと他者には(ときには自分にすらも)伝わらないけれど、生地のときどんな様子のものだったか、余った端切れはなんなのか、それを知っているのは型抜く直前の自分だけだ。
言葉にできない、があまり許容されない世の中で、せめて休憩時間には、型抜きされる前の何かをもちょたもちょしていたい。