「……いいか、落ち着いて聞いてくれ。『君は今』恐らく、冷静に物を考えられない状態にある。そうじゃなければ、俺なんかにこんな、」
「えー? ワタシはいたって冷静ですよー? だってー、ここが夢の中なんだってことくらい、すぐにわかりましたから。にしてもなんですか、この至近距離は? いくらワタシの夢だからって、自分ちのベッドの上で、職場の上司にお姫様抱っこされてるとか、あり得ない設定すぎてちょーウケるんですけどー? こんなに顔が近くて、あったかくてフワフワしちゃって、ワタシの願望そのままに課長の顔面がそこにあるのなら! ワタシとしては、目の前にあるその山を登るしかないですよねー? ウフフッ」
「……つまり。何故俺の顔にキスをしたのか、それは俺の顔が目の前にあったから……と? もしこれが俺じゃなかったら、こんなことはしなかったと、そういうことなのか? 」
「えー? そんなの、当たり前じゃないですか! ……ワタシが無差別にキスするような人間だとでも? そんなのひどい、ワタシの夢の中の課長なのにっ……ううっ」
「ええっ? いや違う、ええと……俺が悪かった、だから泣きやんでくれ」
「じゃあ……ぎゅーって、してくれませんか?」
「……は?」
「だってこんな夢は、そう都合よく見れるモンじゃないですし? わぁ、ヒゲでほっぺがチクチクするなんてリアルすぎ、フフフッ」
「っ、抱きついてからの頬ずり、あの園山さんが……? まぁでも、きっと明日には全部忘れて……あークソ! なんだよ、この可愛い生き物は?!」
「わぁ、課長のぎゅーだぁっ。うれしいなーっ……やだ、まだ目、覚ましたくない……ぐぅ」
「っっ! ……え、寝た? 寝たのか? ……寝てるのに腕が外せない、せめて添い寝状態に……よい、しょっと。……で? このまま朝まで、か……」
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「……いいか、園山さん。君は今恐らく、冷静に物を考えられない状態にある、だから土下座なんかやめて、」
「申し訳、ありませんでしたーーー! 酔っ払って自力で帰れなくて、上司に部屋まで送らせて、しかも朝まで介抱させてしまっただなんて、ああぁあーもうもう、もうっ!!」
「……それで? 君はどこまで覚えてるんだ?」
「え? ええっと……課長と一緒に乗り込んだタクシーから、自力で降りられなくて、それで……あれ? え、待って。あの、お姫様抱っこの夢は、まさか……?」
「口にしたセリフなんかは、覚えてるか?」
「っ、そうですね……残念ながらお酒で記憶を無くさないタチなので、順を追って思い出せば……」
「……山に登る理由を、尋ねても?」
「山に登る理由は、そこに山があるから……あっ」
「よかった、覚えてるんだな」
「あっ、いえ? えっとその、あの、」
「再現してみよう。俺の顔面を園山さんの目の前に差し出したら、どうなるか」
「かっ課長? ……きゃあっ?! 待ってくださいっ、課長は今恐らく、冷静に物を考えられない状態に、」
「そんな状態に誰がしたと思ってる、誰が!」
この2月の空には、さっきまでみたいな、すぐにでも泣き出しそうな『物憂げな空』のまま、そのままでいてほしかったのだ。
けれど。空は存外早々に雲を散らしてみせ、だけど遠くの山々が見えない程度には曇ったまま、所在なく夕日のオレンジを纏って、表情をわずかに緩めるだけの笑みを見せてきたから、ボクはちょっと裏切られたような気持ちになった。
もしも空から一粒でも水滴が落ちてきたなら、ボクはきっと「……ほら。キミはそうやってさ、簡単に泣くよね」とか、そんな言葉を平気で投げつけて、そしてやっぱり、キミに裏切られたような気持ちになったのだろう。
無理して笑ってみせるキミも、泣いてしまうキミも、どちらも許せない──笑うことも、泣いてしまうことも出来ないまま、この風の吹かない場所にボクと、ずっと一緒にいてくれたらよかったのに。
「でもね。ボクたちは、ずっとそのままではいられないのさ。どんな場所にだっていつかは風が通り、時は過ぎる──良くも悪くも、ね?」
……ボクは。
裏切り者の言葉なんか、信じない。
どこにも行けないボクのままでいい、淋しくなんかないのだから。
『小さな命』と表現されるような、自力では存在し得ず他の誰かの助けがなくては生き延びられない命を、己の人生に踏み込ませるほどの強さも勇気もなく、だがそれでも世の小さな命の全てが先の未来を迎えられたらと思い願う、所詮は偽善だと言われたとしても。
検索して調べて例えば『Love you』と「Lovin'you」ではどうやら意味が違うらしいとかそういうことを知ったところで「ふーん」で済ませてしまう程度に縁遠い異国の言葉でしかなくけれど彼らが「Love」を日常から上手に贈り合い与え合うような使い方をしてるのは素敵なことだしすごいことだよなぁと思うでもやっぱりマネは出来ないかなぁ内気で奥ゆかしいジャパニーズとしては!
ああ……この男にこうして、闇の世界を照らす黒い『太陽のような』微笑みを向けられたのは、これで二度目だ。
あの日彼と初めて会ったときも、そしていまも。
この微笑みの前では、どんな隠し事だって明らかにされてしまいそうで──それでも、わたくしはそれに耐え、踏ん張らなくてはならない。
この、前世に読んでいた小説の世界に転生してしまったわたくしが、無事に生きのびるために。
そもそも、いまわたくしの目の前にいる、すべての魔の者を統べる王──彼の姿を知る者はこれまで、誰一人としていなかったのだ。
数多の魔の物たちは、見えないながらも感じられる、彼の膨大な魔力や覇道力に心酔し、彼に服従を誓う、その姿が見えなくとも──と。
子供の頃からの伝承にも、歴史の授業でも、そう聞いていたはず、なのに。
なんだってこんな、人間の姿でわたくしの前に現れたのか──サラサラストレートの黒髪ロングで細マッチョの体がフツーに上級貴族の服なんか着こなしちゃってて、それは前回の夜会でわたくしが、うっかり彼の正体を見破ってしまったときとおんなじで、本当になんでなのか全然わかんないし。
それに加えて、まるで当たり前のように当家の入り口に馬車を乗り付けて、今夜の夜会へ向かうべく出てきた私へと、タイミングよく手を差し伸べちゃってるのは……本当に本当に、なぜなんでしょうね???
「エスコートをするお約束でしたので」
口にしていないはずのわたくしの問いに、彼はその微笑みを崩さずに答えた。
「お約束をした覚えが、わたくしにはないのですが」
「先に私の真の名を呼んだのは、貴女だというのに」
「っ、それ、は……」
彼の姿を目にしたとたん、前世で読んだ小説の記憶が何故かいきなりひらめいて、頭に浮かんできた名前をそのまま、つぶやいてしまったから、なんですけどね?
でも人には聞こえないくらいの声だったし、すぐにその場を離れたのにっ。あーそっか、魔王サマだもんね、きっと地獄耳なんだ……いや、そんな納得してる場合じゃない! 全力で誤魔化さないと!
「いえそんな、名を呼んだ、など……そんな記憶もわたくしにはありませんし」
「フフッ。その名を知る貴女なら、逃げられないことくらい、お分かりなのではないですか?」
あー、はい。マジこれ、詰んだ。
そうだよねー。正体バレたら、殺すよねー?
魔王サマから、逃げられるわけなんてなかったー……少し時間をいただいて、お父様とお母様に最期の挨拶をしてこようかしら?
「……べつに貴女を、取って食ったりはしませんよ?」
と。いつの間にか至近距離にいた彼がそんなふうに、固まっている私の耳元で囁いた。
だから、声に出してないってば、もう……なんだろう、地獄耳じゃなくて、直接心を読まれてるのかな?
「共に夜会を楽しむだけです。今日のところは」
っっっ! 今日のところは、ですって?!
でも、これ……どっちにしたって、彼についていく以外の選択肢、ないじゃんかーーー!
心の中で絶叫しながらわたくしは、なにもかもをすっかり諦めることにし、エスコートに応えるべく、差し出されていた彼の手に、自分の手をそっと添えた。
すると彼がわたくしの手に、口づけを落としてきて──。
「楽しい夜に、なりそうですね」
「っっ、……どうぞ、お手柔らかにお願いいたします」
殺すなら、お手柔らかに。
そういう意味でも言ってみたけど、ちゃんと伝わったかしらね?