地元に帰り、かつての友人がしばらく前に亡くなったことを知る。成人式で近況を話し合ったのが最後であった。いつ亡くなったのか、なぜ亡くなったのか、本当に亡くなったのか、近所にあった家はすでに転居し、わからない。
数年前、京都を訪れたとき、進学で付近に住んでいた彼に電話したことがあった。番号は変わっていて繋がらなかった。
あのとき電話が繫がっていたら何か変わっただろうか?それとも、すでに亡くなっていたのか?
突然訪れる別れは、実はゆっくりと、見当もつかないところで進んでいるのかもしれない。
再びあの友人と、自分の人生が交差するときがくると、確信している。旧友と会うとき、その生死は関係ない。
愛があってもハンバーグを半分に分け合うのすら難しい。相手の好み、体調、気分、そして譲り合いの裏にある本当の気持ち。相手のためにすることはたいてい失敗する。自分のために、食べるし、自分のために、君に譲る。愛には公平さがない。与え続けることしかない。自分の生命を大事にする延長上に、愛がある。
忙しいとき、あれもこれもやりたいと歯がゆい思いをするのに、珍しく時間に余裕が生まれれば、その中の一つとして、この貴重な時間に割り当てるほどの価値を感じなくなるのである。
ベッドに寝そべり、そこから知的な冒険が始まるのならそれでも良いが、ただ無為に時間を過ごし、後悔する。
そこで、あらかじめ忙しいときにやりたくなったことを書きとめておき、上から順にやってみることにした。
タスクを片付けるのは気分がいい。計画は忙しいときの細切れの時間でたて、余裕が生まれたときはただ実行する機械となる。もしも、実行中に計画ミスがわかったら、別のタスクをやればよい。タスクがなくなったら、家事や散歩をすればよい。
腰を据えて、考え事をしない。時間がもったいない。
これは、生き続けるための工夫でもある。
イヌはオオカミに比べて温厚で、賢い。オオカミの赤ちゃんに似ている。これは幼形成熟という。
オオカミを家畜化する(オオカミの子のうちもっとも温厚な者を選んで育てる)中で起こった。
オオカミの大人は頑固だが、イヌの大人は柔軟でよく遊ぶ。そして、たくさん学ぶ。
ヒトも、野人の幼形成熟だ。それでも歳を取ると頑固になる。
子どもっぽいは、学び続けているという意味の褒め言葉。
人を愛し、愛は人(子ども)になる。
恋愛は人を愛する試練だが、育児は逆。
愛が人になるなかで、それでも人を愛する試練である。