人を“弱者”として眺めるとき、
そこには無意識の段差が生まれる。
見下ろす角度からこぼれるのが、同情だ。
それは悪意ではない。
けれど、「かわいそう」という評価を含んでいる。
一方で、
「あなたはいま、こういう局面に立っている」と
具体へ降りるとき、
そこに生まれるのは尊重だ。
尊重は、感情の洪水ではない。
むしろ静水だ。
「……それは、つらかったね」
その一文に、
分析も、比較も、自己投影もいらない。
“わかるよ”と急がない。
“気にしすぎ”と整形しない。
問い詰めもしない。
ただ、
話すなら聞く。
話さないならそばにいる。
同情は、きっと、優しさの初期衝動だ。
けれど、
そのまま外に出すと、相手の尊厳を削ることがある。
だから技術を持つ。
内側で変換する。
かわいそう
→ 何が起きたのだろう。
助けたい
→ この人は何を望んでいるのだろう。
私もつらい
→ いまは、あなたの時間だ。
それだけで、尊重は成立する。
痛みは共有しなくていい。
証明しなくていい。
継承しなくていい。
ただ、
「あなたの痛みは、あなたのものとして確かに存在している」
と扱われればいい。
もしその痛みを嘲笑う者がいるなら、
そのときは静かな怒りで線を引こう。
怒鳴らずともいい。
軽蔑せずともいい。
ただ、
“それは越えてはいけない領域だ”
と示せばいい。
同情は衝動。
尊重は選択。
私は、同情を尊重に変えたい。
題 同情
なんで枯葉にそこまで感情移入するんだろって笑っちゃうんだけどさ。
ぷつり、と音もなく離断して、地面に触れたとき、その姿が、
「それでも、誰かに拾われたい」と黙って差し出されている手のように映る事がよくある。
本当は枯葉は、
愛を欲しているんじゃない。
ただ循環しているだけだ。
枯葉は抗わない。
抗えないのか、
もう抗う意味がないのかもわからない。
ただ静かに在る。
その「静かな在り方」が、
私の中の“声を出さなかった部分”を震わせる。
だから手を伸ばしたくなる。
「見ている」と言いたくなる。
「拾うよ」と言いたくなる。
けれど、子どもが枯れ葉をかき集めて笑っているとき、
枯葉は「終わったもの」じゃなくなる。
身体の動きに巻き込まれて、
もう一度、世界の中心に置かれる。
それを見たとき、少し寂しくなくなるんだよ。
おかしいよね笑
題 枯葉
「なぜ誰も私を見ないのか」。
世間が言う“勉強”は暗記で、
私が求めているのは気づきだ。
評価される知性と、
私が大切にしている知性が
根本的に違うという違和感を幼少期からずっと抱え続けている。
私はずっと怠けてなどいないし、努力もしてきている。
が、世間は成熟を測れない。
何故、そのことを誰も教えてくれなかったのか。
父は「大丈夫」といいながら飲み続け、母も「大丈夫」といいながら留まり続ける。
ひとつも大丈夫な事など無かったのに。
言葉と現実の不一致。
私はずっと気づいていた。
でも「気づき」は評価されず、
むしろ過敏さのように扱われた。
そして今、
父は思考を壊し、母は私に要求する。
夫も同じ構図。
“父のようになられては困る”という私の気持ちを無視し続け「嗜む程度だから」と言いながら飲み続けた夫が「オレはもう手遅れ」などと宣う。
ここで私の問いが戻る。
“なぜ誰も私を見ないのか”
それは単なる承認欲求ではなく、
尊厳の問題。
今日、高学年の我が子の授業参観を見た。
道徳での、テーマは『何故、命は大切なのか』
授業を見て、私は凍りつく。
生まれつき重い心臓病を抱える主人公の女の子が亡くなる前にお母さんに書いた手紙というフィクションだ。
「ずっと私を見守ってくれているお母さんは、ずっと味方でいてくれて、私がつらいときは、お母さんもつらいんだと気づいた。お母さんも一緒に頑張ってるんだ。だから、“ 手術頑張ってくるね”ではなく、“手術頑張ろうね”と言いたい。この手術が終わったら、治って皆と同じように元気になるんだ。」って内容。
「命が大切」という語りで令和になっても未だに尊厳をすり替えている。
命はただの稼働時間。
与えられた寿命という持ち時間。
減っていく砂時計。
消耗していくもの。
大切なのは、その上に乗る“尊厳”のはずだ。
守られること。
侵されないこと。
感覚を否定されないこと。
でも道徳の教材は、
美談に回収する。
驚くのは、子どもたちがそれを遺書として読むのだ。
主人公の視点では、自分が死ぬことはまだ確定していない。それは遺書ではない。
しかし、子どもたちに“誤読”させたまま進行する授業。
構造は曖昧で、
問いは浅く、
感情だけが誘導されていく。
担任はフィクションに涙をこらえる。
担任は、凄くあたたかなひとだ。
しかし、この教材の示させたい答えは、
「命は誰かとつながっている」
「自分が生きることは、誰かの喜びや悲しみと結びついている」ということなんだろう。
道徳の教材の中の主人公は
“守られている実感”の中にいる。
私は
“守られていない感覚”を抱えたまま
親を、ひとを、理解しようとしてきた。
未熟児で真冬に生まれ、重度の喘息で飲食睡眠もままならずに情緒的ネグレクトのある中で生きてきた。
それは“関係性”の話であって、
誰もが道徳の中のような関係性ではない。
それは、命そのものの話ではない。
その教材は整っている。
整いすぎている。
痛みが物語として回収され、
母子の理解で昇華され、
希望で締められる。
「命が大切」という結論が先にあり、
そこに物語が奉仕する構造。
でも現実の命は、
そんなに均整が取れていない。
私が引っかかっているのは、
「命が大切」という結論が、
予定調和で置かれていたから。
その構造の気味の悪さは、私が子ども時代にも感じた、道徳の授業中の感覚の再来だった。
私は思う。
こんな世界なら消えたい。
命を否定したいのではない。
尊厳を軽く扱う世界に、
耐えられないという叫び。
自分がずっと違和感を抱いてきた構造の中に、
いま我が子が座っている。
私は帰ってから『どう思った?』と問い直せる。その気持ちに寄り添える。我が子は、強く優しいからいいのだけど。
けれど、その横では勿論夫は飲んでいるし、飲もうが飲まなかろうが会話はしばしば成り立たない。
そして、誰も私を見ない世界から身を投げ出す夢を見て今目が覚めた。私が居ないと子どもを守れない。夫の面倒を見るのは私だと思っているから。現実に消える事はできないな。私は子供に要求せず、背負い切るつもりだ。
眠る前にお題を見て、今日という日にさよならという気分だったから、そんな夢を見たのだろう。本当は誰も私を見ない世界からさよならしたい自分を飼い慣らしている。
我が子は違う。我が子は見てくれている。けれど、そうじゃない。それを拠り所にしてはいけない。だからひとりだ。
もし尊厳が徹底的に踏みにじられるなら、
人は「消えたい」と思う。
それは命の否定ではなく、
尊厳回復の叫びだ。
だから、何故命が大切なのかの答えは一行では終わらない。
命が大切なのは、
それが尊厳を宿す器だから。
身を投げ出すかわりに、今日の重さに さよなら。
題 今日にさよなら
川で溺れかけた犬を見つける。
助けるかどうか迷う少年。
助ければ自分も危ない。
誰も見ていない。
彼は助ける。
ずぶ濡れになる。
後日、その犬の飼い主に感謝される。
だが少年は言う。
「助けなくても、誰にも責められなかった。
でも、自分が自分を見られなくなる気がした。」
担任は問う。
「命が大切なのは、
その命のため?
それとも自分がどう在りたいかの問題?」
ここで止める。
命と尊厳を接続する。
しかし“善行美談”にはしない。
それが、本来、『命がなぜ大切なのか?』を考えるための教材に値すると思うんだよ。
でも、大人の助けを呼ぶのが正しいとかの話になっちゃうんだよな。
答えは存在しない。
百円で買ったグラスは、
背が低く、じっとしていない。
ロッキンググラスとか、
スウィンググラスとか呼ばれるらしい。
底は丸く突出している。
柄は点と線と丸で散らばり、
花にも花火にも見える。
ボヘミアン風の模様だという。
本場かどうかは重要じゃない。
いま、私の手の中でゆらゆらしている。
それだけでいい。
フラットな面はなく、
どこを正面にすればいいのか分からない。
だから、どこから見てもいい。
パックの安い白ワインを注ぐと、
模様の隙間を光が泳ぐ。
触れなくても、
ワインの重みだけで
ゆら、と生き物みたいに揺れる。
高くもないし、特別でもない。
けれど「安い」という事実は、
むしろ気楽さをくれる。
失敗してもいい。
こぼしてもいい。
気取らなくていい。
そのグラスは、
背伸びしなくていい夜を許してくれる。
艶っぽさじゃなく、
きらっとした無邪気さ。
いたずらを思いついた子どもみたいに、
「ほら見て」と揺れてくる。
ちゃんと立ちなさいよ、と
言われそうなのに、
わざと少しふらふらしている。
でも倒れない。
そこがまた、可愛い。
白ワインの淡い色を抱えて、
ゆら、ゆら。
光を遊ばせる。
自分が魅せていると
気づいていない色気。
ダイソーで一目惚れして、
連れて帰った。
完璧じゃない夜に、
ちょうどいい。
題 お気に入り
誰よりも、
あなたは
あなたの痛みを知っている。
誰よりも、
あなたは
あなたの弱さを抱いてきた。
だからね、
誰よりも
あなたが
あなたの味方でいていい。
世界に勝たなくていい。
誰かを追い越さなくていい。
ただ、
誰よりも先に、
自分を裏切らないこと。
それだけで、
十分すぎるほど強い。
冷え切った指先を、もう片方の手で包むような、
ごく静かで、原初的な 防寒 のつくり方。
題 誰よりも