ボクの目から落ちる雫は真珠になって下に落ちる。カツンと乾いた音を立ててどこかへ行った。
「あくびの涙も真珠になるんだね」
足元に転がった真珠を拾い上げた信乃が言った。
「うん、そうみたい。それを見るたびボクは人じゃないことを痛感するよ」
「仕方ないよ、体質なんだから」
真珠をいじりながら笑った。長袖の隙間から包帯が見える。また……。とボクは思った。
「また機嫌が悪いんだね。お父さん」
「うん。少し手首を痛めただけ」
「どこかに相談しないの? ボクも……」
信乃は手に持っていた真珠を握ってボクの顔を見つめた。
──余計なことはするな。とでも言いたげな瞳で。
ボクがこの学校に転入してきたのは3ヶ月前のこと。海からやってきたボクは足を手に入れ、肺で呼吸をすることを学んだ。
ここは特別で海から来た者を受け入れてくれる変わった学校だった。
転入して早々ボクは保健室の住人になってしまった。クラスで挨拶を済ませたあと、学校集会のため体育館に向かっているとき、予期せぬ方向からボールが飛んできたため顔面でキャッチしてしまった。仲良くなった友人擬きは半笑いし、ボールを飛ばした本人は簡易な謝罪で元の場所へと戻って行った。
当の本人(ボク)はと言うと、初めて“鼻血”を経験したことによって途方にくれていた。
その時助けてくれたのが信乃だった。
ティッシュを渡してきたと思ったら、手を引いて保健室へ連れてきてくれた。テキパキと戸棚からワタを取り出し「鼻に詰めて」と言い、冷凍庫から氷を取り出し氷のうへ詰めていく。
「慣れて、いるんだね」
「わたし、いつもここにいるから」
信乃は小さな声で言った。振り返った彼女は先程作っていた氷のうを差し出した。
「冷やして、それで止まらないなら先生呼んでくるから」
「うん、ありがとう……」
ボクが頷いたときカツンと乾いた音がした。
手についていた血が床に落ちたからだ。目の先には血のような赤いルビーが落ちていた。
これがボクの体質。海の者によって個体差は出てくるが、体液が毒の性質の者、血肉が不老不死の性質を持つ者、歌声が命を奪う性質を持つ者など様々。ボクの性質は涙と血が宝石になること。人ではない部分。
「──綺麗」
信乃は笑って言った。
その言葉でボクは自分の性質がこれでよかったと思った。
「そう、かな?」
「うん、とても」
「じゃあ、あげるよ。キミが嫌じゃなければ……」
信乃はルビーを拾い少し悩んだあと、微笑しルビーを自分のポケットへしまった。
「ありがとう、大事にするね」
彼女はそう言い保険室から出ていった。
それからすぐ彼女が何故保健室にずっといるのか知ることになった。
下校時、裏路地に面した場所で、中年男性と言い争う信乃を見かけた。
──お父さん、待ってよ、待って! それは大切なものなの! 返して、返してよ!
保健室で聞いた声よりも大きく切羽詰まった声だった。
──うるさい! と中年男が怒鳴り信乃を突き飛ばした。その手には保健室で彼女にあげたルビーが握られていた。
しがみついてくる信乃を振り払いながら男は足取り確かにどこかへ向かって行った。
「信乃」
ボクが声をかけると信乃は戸惑ったような顔をした。
「……風海(かざみ)くん、ご、ごめんなさい」
信乃は顔伏せ震えていた。自分の拳に力がこもる。
「…ボクが取り返すよ」
「だめ!」
信乃は叫んだ。ボクの腕を掴み、ボクの目を強く睨んだ。
「…絶対にだめ」
ぼやくようにもう一度言った。震える手は彼女の可弱さを物語らせた。
その後からボクたちは保健室仲間として仲良くなった。保健室で彼女は本を読んでいた。日本文学から海外の作品まで沢山読んでいた。
「桜の木の下には死体が埋まっている」
信乃が呟いた。
「え? どういうこと」
「有名な文豪の一文なの。桜の花があまりにも美しいから何か理由があると不安に思った主人公が想像したのがこの一文なんだって」
「へー、変なことを言う人もいたんだね」
「そうだね。でもわたしこの言葉好きだな……」
信乃は呟き、視線を本に戻した。
彼女は言った。辛い、苦しい、死んでしまいたいと思ったとき本の世界に行くと現実世界の嫌な部分を忘れることができると。
1頁、1頁、わたしではない誰かになれる──と信乃はアザのついた腕をさすった。
──ボクがどうにかするよ
──ボクが君を守るから、どこかに逃げよう
──キミのためならなんだってするから
だから、信乃(キミ)に生きていてほしい。幸せになってほしかった。
彼女は絶対に首を縦に振らなかった。
例えどんなに傷つけられても、虐げられても、それでも家族だからと、見捨てられないと彼女は涙を流した。
ボクの涙は真珠になるのにキミの雫(なみだ)は水滴のまま下に落ちる。
人は無力だ。人と魚の半分ずつのボクも。
信乃の抱えた苦しみも痛みも悩みも救えない。
それでもボクの歌を聴いて涙を流し笑った顔、ボクの体質を綺麗だと言ってくれた声、小さな震えた手、ふわふわとなびく顎元で切りそろえられた髪、ボクは彼女の全てが愛おしく思っていた。
苦しいのならボクの息をわけてあげたい。
痛いなら痛みをわけてほしい。
寂しいのならキミのそばで歌うから。
どうか、どうか、一人で泣かないで。
キミの「助けて…」にボクは全てをキミに捧(あ)げたいと思った。
【ロスト】
「それじゃあ、行くね」
改札の前で大荷物を抱えたカオリが言う。
「あぁ……」
無愛想な声が出たと思った。視線を下に下に反らし、体を丸める。やや最近、腹まわりが出てきていた。カオリはそんな姿を見て「もう! 少しは体に気を使いなよ!」と文句を言っていたっけ。あぁ、行ってしまう。と湧く感情を堪えるように、地面を強く凝視(みつ)めた。
「私が居なくても、ちゃんとご飯食べてね。あ、くれぐれもバランス良く! ねっ!」
「あぁ」
「メールもするから、ちゃんとスマホの使い方覚えてね!」
「あぁ」
「あと、えっ……と……っ」
カオリの言葉が詰まる。あぁ、わかっているさ。何年、いや、何十年一緒にいたと思っているんだ?ぐっと手足に力がこもる。
「……東京には、きっと美味しいものがたくさんあるし、洋服だっていっぱい……。だから、だから、心配しないで、私は、大丈夫だから」
“お父さん”
何度も何度も話し合い、その都度反対していた上京。妻を早くに亡くし、片親で育て上げた立派な娘。強く、逞しくそして妻に似て美しく育った。
「もちろん、お父さんにも、お母さんにも東京の物買って送るね。楽しみにしていて、私、頑張るから」
「いいや」
私は首を横に振った。少しだけカオリの体が揺れる。
「いいや。何も、何もいらないさ」
「どうしっ……」
顔を上げ、カオリの困惑したような、まだ反対しているのかと心理を探る瞳を見つめた。
「ただ、お前が元気でいてくれたらそれでいい。たまに、たまにでいい……、帰ってこいよ。父さんも母さんも待ってる。東京(あっち)での土産話を楽しみに待っているよ、カオリ」
目の縁に涙をいっぱい溜めたカオリが大きく頷く。その時ぽたりと雫が落ちた。乱暴に厚手のコートの袖で拭う。
「そんな乱暴に拭くな。赤くなるぞ」
そう言うとカオリは勢い良く顔を上げ涙でぐしゃぐしゃな顔でニッと笑った。
「お父さん! 行ってきます!」
「あぁ……、行って、らっしゃい」
今度は無愛想な声ではなかった。喉の奥がツンと苦しく、言葉が詰まり、頼りない震えた声だった。
改札の奥へ歩いていくカオリの背を見つめながら思った。今は振り返ってくれるな……と。
カオリは一度立ち止まったが振り返ることなくホームへ向かった。
私は周りに気づかれぬよう顔を拭い、帰路につこうと歩みだしたとき、はらりと空から雪が降ってきた。季節外れの雪。不思議と若き日の妻と私で聴いた曲を思い出した。
カオリとは状況が逆だが何処か今の現状にマッチしていた。
カオリが言葉に詰まらせた時、きっと別れの言葉を言おうとしたのだろう。別れの言葉何ていらないさ。娘の門出を私は今、やっと喜ぶことができたのだから。
【スイートピーと季節外れの雪】