徒然なるままにかく語りき

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9/2/2024, 1:39:31 PM

心の灯火

人の心が動くときはどんなときだろう。
嬉しいとき、怒るとき、悲しいとき、楽しいとき。
人は様々な場面で心が動く。
そして心が動くことにより、人は変わる。
「こんなことが嬉しさに繋がるのか。自分も周りの人を喜ばせる人になりたいなぁ。」
「とても苛立った。もう話なんてしてやんない。」
「二度とこんな悲しい思いはしたくない。」
「人生は楽しんでなんぼ。」
心の動きがきっかけとなり、灯火となり、人は変わり、人生が大きく変わっていく。
では、灯火はどのように生まれるのだろうか。
きっと人と人との心のふれ合いで生まれるのだろう。

9/1/2024, 1:34:05 PM

開けないLINE

開けなくても小窓で中身を少しだけ確認することができるし、長押しすれば既読を付けずに大体の内容を把握することができる。
つまり、内容がわかった上で開けないでおこうと判断することもできるというわけだ。なので、送り手からすると、既読が付いていなくても内容は伝わっている可能性があると判断してもよいのかもしれない。
そうなると、既読が付くか付かないかは、内容が伝わっているか伝わっていないかの判断材料にはならないということになる。
"既読"には、"既に読みましたよ"という意味合いではなく、"既読"をあえて付けないことで、また別の意味を伝えようとする、そんな役割になってしまっているのかもしれない。

10/10/2022, 12:09:31 AM

ココロオドル

 人間は動物である。生存本能がさまざまな場面で発動する。顕著に現れるのは、人を見下す行為である。なぜ見下すのか、なぜいじめが起こるのか、なぜ悪口を言うのか、結局は自分の地位を確立し生き残るためである。人間は動物である。種を絶えさせないためにも生き残る必要があり、それは本能としてDNAに深く深く刻まれているのである。
 ん?だから?だから人を見下し、傷つけてもよいと?それは違う。人間は動物である、が、動物であると同時に心がある。本能とは別に心がある。元来、これほどまでに心を説いてきた動物がいるだろうか。人間の特権と言ってもよいかもしれない。そんな特別な感性があるにもかかわらず、人を見下し、傷つけて本当に私たちの心は喜ぶのだろうか、踊ってくれるのだろうか。答えは否である。人を傷つけて心が踊るはずがない。踊ったように感じるのは、「動物」だからである。「人間」だからではない。人間は動物であり、動物ではない。

では、人間以外の動物には心がないのか...。
考えれば考えるほど、ココロオドル。

10/8/2022, 4:28:22 PM

束の間の休息

 慌ただしい毎日を生き甲斐に感じる人は少なくないだろう。私もそのうちの1人である。なにか予定がないと落ち着かない。考えたり、行動していることが、自分にとって価値あることだ。などなど、このような気持ちがいつも込み上げてならない。
 しかしどうだろうか。慌ただしい日々やなにか気持ちが落ち着かない日々、そんな時こそ束の間の休息を大切にすべきであると、沸々と込み上げてくるのは私だけだろうか。まさに束の間だ。少しだけ心を無にし、何も考えない。そんな時間があっても良いではないか。長時間打ち込むことは決して悪いことではない。しかし、思考は固まり、多面的なものの捉え方ができなくなる可能性も無きにしも非ず。そんな時こそ休息だ。ヒートアップした脳をクールダウンし、柔軟さを取り戻す。これこそまさに効率的な思考だと私は思う。