「誰か」という問いかけは「任意の誰か」であり、貴方でもお前でも貴様でもなく、名乗り出てくる誰かという受動的な曖昧な問いかけであり、言ってしまえば「誰でも良い」を匂わせており、そんな、誰でも良い誰かに選ばれる人は不機嫌じゃ無いだろうか?
そう思ってしまう。
名前を、呼んで。
時の経過を『旅』と捉えると、何処へ行かなくとも旅は日々続くよね。
時々は旅程の厳しさに疲れたりもする。
「もっとゆるゆるのスケジュールにならないの?」みたいな。
モノクロって白と黒の世界でしょう、光と影、明暗。
それって有ると無いで出来てるわけだけれども、実際に絵に描くとすると「影がある」の部分に手を入れるだけでモノクロの世界は作れるわけで…
「ネガティブな影の世界だけが『有る』わけなんだ?」
「光の世界は『消し飛んじゃう』から」
「俺たちが快いと思っている光の世界は、何かを押しやったり消し飛ばせて作ったスペースなのかもしれないね」
夜にはこうやって『闇が在る』が充満して、ひとときの安らぎが満ちるのだけれども。
「永遠なんて、ないけれど」
そう予防線を張って慎重と投げやりの狭間で話を遊ばせる彼女に僕は言った。
「とは言え星を見なよ。」
「厳密には永遠ではないかもしれないが、体感ではほぼ永遠に光るあれらは、常に空に在り続ける。僕らよりずっと誠実に。」
誠実に、の所で彼女がはにかんだ。
投げやりでいることよりも空の星のように誠実でいることを選んだらしい彼女は、一歩近寄って僕のシャツを軽く掴んで、空を見上げた。
最近なんだったか…あ、映画か。
「花まんま」で4回泣きましたね。
別段、誰か悲劇的な死を迎えるとか、小説に必要な捨て駒というか、そういう悲劇が何もないので泣く必要はないんだけど、鈴木亮平の兄バカパワーで4回泣いたというか。
強いストレスかなにかで感情が動かない時期だったので、泣くという行為がとてもリラックスに繋がりました。
誰も死んでないんだから、これは悲しい涙じゃなくて、安堵の涙というのが一番近いのかもしれない。
安心した時というのが、私の場合とても強い涙の理由になります。