「先生ーさようならー!」
「おー。さようならー」
伸びる影を追いかけるように、最終下校を知らせる音楽が、穏やかな風と帰りを急ぐ足音に流れていく。
つい先日まで早かった日の入りも、気が付けば日に日に延び、夏が近付いていた。
さて、そろそろ自分も片付けなければ。
色が混ざった水を流しながら、ふと見た窓の外の光景に、昔の記憶が脳裏を掠めた。
あんな風に、高く高く、別れを惜しむように手を振らなくなったのは、いつの頃だっただろうか。
「先生、まだ、残ってた」
少し沈むような空気が漂う中、息が上がったてはいるが、凛と耳に届く声が、背中越しに聞こえた。
「そう言うお前は…まだ残ってたのか。珍しい」
今日は少し暑かったのか、上下する肩に下げたリュックの口から、黒い袖が見えている。上着をリュックに押し込んでいるようだ。
荷物を手近な机に置き、腕を捲りながら横に並ぶと、ぶっきらぼうに「ん。」と、掌を僕に差し出してきた。
どうやら、片付けを手伝ってくれるらしい。
曰く、先生の片付けるペースだと、日没に間に合わないのだそうだ。
「いやはや、助かったよー。お礼にジュースでも奢ってあげよう」
「いや、いいよ。もう直ぐ帰んないといけないから」
そう言いながら、隣で校門まで押して歩いていた自転車が、思い出したかのようにピタリと止まった。
「先生………」
射抜くような真っ直ぐな瞳に、思わず視線を逸らしたくなる。
「………」
「…………………」
「……………………………………………………
…やっぱ言いや。なしで」
「…は?」
そう言うな否や、ヒョイっと何事もなかったかのように、自転車で僕の帰路とは反対方向に進んでいってしまった。
…まあ、そう。何かが起きなくて良かったのかも知れない。
少しづつ小さくなっていく背中を、見つめた後、自分も帰ろうと、ペダルに足を踏み入れた瞬間、今までで一番心に響くように僕を呼ぶ大きな声に振り返った。
〈君が付けた僕の愛称とさよならを〉
泣きそうな君に、出来る限りのエールを
何年か振りに、僕も大きくを手を振った
ずっと言いたくて堪らなかった。
その気持ちが溢れたかのような、突然の豪雨。
最悪だ。
今日こそ伝えるんだと、ペダルを意気込むように漕ぎ出した途端これだ。
夏の暑さには丁度良くても、折角エンジンを掛けた心は、その冷たさに『やっぱり』なんて、動くのを止めようとし始めた。
僕の悪い癖だ。
虚しい。思わず足の力も緩みそうになる。
けれど、その足を止める訳にはいかった。
何故かというと、ここが急な坂道であり、後ろには君が一緒に自転車で登っている最中だったのだ。
色んなものを押し潰して、なんとか頂上に登った時だった。
さっきまでの豪雨が嘘かのように、生ぬるい風と共に光が辺りを包んだ。
すると、鈴を転がしたかのような特徴ある声が僕を呼んだ。
振り返ると、雨粒の光に反射する景色と、空を仰ぎ見ながら、笑う君の姿。
笑いながら言う。
見て見て と。
素敵な空だ と。
〈瞬き溢れる世界が見えた〉
あの日見た景色を、僕は一生忘れないだろう。