シータの主人であるミリィは強気で意地っ張りな少女だ。いつも危なっかしくて見ていられない。彼女がしおらしくするときは数えるほどしかないが、彼女が悪夢を見た翌日はいつだってしおらしい。
夜更かしが大好きな彼女は、昼まで寝ていることが多い。そのせいで大学も遅刻しがちなのが難点で、何度言っても直る気配はない。
彼が朝、声をかけに行ったとき、基本的に返事がない。仕方がないので、正午前後にもう一度、軽食を持って、彼女の部屋の扉をノックする。そのとき、返事がなければ寝ているものと、起こしに入る。返事があれば――夢を見たという証だ。
「……シータ……?」
そして今日、彼女は悪夢を見たようだ。ぼんやりとして、それでいて警戒しているような声で彼女は言う。彼は小さく笑って返した。
「俺以外に誰がいると言うんです」
「……入りなさい」
失礼します、と言いながら、彼は部屋の扉を開けた。
彼女は大きなベッドの真ん中で、放心したように座り込んでいる。寝間着のままで、うなされて随分と寝返りを打ったのか髪はぼさぼさだ。
彼はサイドテーブルに持ってきた軽食を置くと、ベッドの縁に腰かけた。
「お嬢、どうしたんです。また怖い夢でも見たんですか」
そう言いながら、彼は子供をあやすように彼女の頭を撫でた。彼女は大人しく為すがままにされている。まだぼんやりと虚空を見つめていた。
「お嬢、聞こえていますか」
「……聞いているわ」
彼が顔を覗き込むと、彼女はそっぽを向いて、か細い声で返事をした。憔悴しきっているその様を見るに、今回の悪夢は酷い内容だったみたいだ。目の下には隈もできている。あまり眠れなかったらしい。
「軽食、お持ちしたんですけど要りますか」
彼の言葉に、彼女はぎこちない動作で振り向いた。真正面から見ると、ぼさぼさの長い髪が顔を覆い隠すように垂れ下がっているせいで、まるでおばけのようだ。
「……うん、食べるわ。今日は何?」
彼は手を伸ばすと、彼女の髪を掻き分けた。怪訝そうな表情の彼女と目が合う。
「パンケーキです。お嬢、お好きでしょう?」
そう言いながら彼はにこりと笑った。彼女も小さな笑みを浮かべた。生憎とその笑顔は引き攣っていたが。
「……ええ、好きよ。嬉しいわ、ありがとう」
どういたしましてと返しながら。彼は頬を掻いた。こう殊勝に礼を言う彼女を見るのも、滅多にないから調子が狂って仕方がない。明日は槍でも降ってくるかもしれない。
(ハグでもしてやれば、いつもの調子に戻るかな?)
そんな仕様もないことを考えながら、彼は彼女に皿を手渡した。
そのとき、ニェナは果てしない暗闇の中にあった。影すら見えない真っ暗闇の中、自分だけがぼんやりとした薄明かりに包まれている。自分の手足や着ている服、髪の毛の先まではっきりと見ることができるけれど、影は見えなかった。
どこかに立っているようだけれど、どことなくふわふわとしている。
自分の体は思うように動いた。歩けるのならばとにかく歩いてみよう。そう思って、ニェナはどこへともなく足を動かし始める。前へ前へ、自分の顔が向いている方向へと、ずっと進み続ける。途中に遮蔽物は何もなく、障害物も何もない。ただひたすらに前へと足を動かしているうちに、段々と疲労を感じてきた。
立ち止まったとき、自分の爪先が闇に紛れかけているのに気づいた。暗闇はニェナの脚にまで立ち昇っていた。ニェナは自分の腕を前に伸ばした。あっという間に闇に呑まれそうになったのを、引っ込める。自分の近くにあるときだけ、辛うじて見えた。
しかし、もう自分の体は、爪先は言うに及ばず、脚から腰あたりまで暗闇に包まれてしまっていた。じわじわと暗闇は這い上がっており、指先はもちろん、肘から肩がもう見えない。完全に闇に呑まれたとき、果たして自分はここに存在しているのだろうか――。
ニェナは強く肩を揺すぶられて目が覚めた。瞬きしながらよろよろと体を起こす。
長い夢を見ていたような気がする。久しく感じていなかった感覚が戻ってきた。自分の肩を掴む彼の手は、少し指が食い込んでいて痛い。痛みを感じるのだって久々な感じがする。
名前を呼ばれたのでニェナは彼を見上げて、首を傾げた。
「ひどく魘されていたが……大丈夫か?」
心配そうな声音が返ってくる。まだ夜が明けきっていないのか、彼の姿は薄闇に紛れてはっきりとしない。
ニェナは笑みを浮かべて頷いた。自分の肩を掴む手に、自分の手を重ねる。彼の手は大きくて骨張っていて、温かい。
夢の余韻がまだ残っている。あれが夢だったのか、もしかすると今、“現実”だと認識しているこれが夢なのかはわからないほどに。
「……手をつないで寝てもいいですか?」
ニェナの懇願に呆れたような溜息が返ってくる。ニェナの手をそっと振り解かれ、肩を掴んでいた手が離れていく。と思うと、彼女は抱き寄せられていた。
「今晩だけだ」
メイナードの姿がようやく見えた。何だかとても安心できた。
緊張が解れたせいか、するするとニェナに眠気が降りてくる。お礼を言わなくてはと思っていたけど、言う前に意識が遠くなっていく。
ことんとニェナが意識を失う前に、彼がおやすみと言った気がした。
マーシャは久々にニルヴァーナ修道院に立ち寄っていた。
それはこの近くに用事があったついでであったが、彼に久々に会えるという期待が、彼女を嬉しくさせている。
近場のドニの街で泊まった翌朝、彼女は意気揚々として修道院の門をくぐった。孤児のマーシャは、昔、この修道院で過ごしていた時期があった。修道士ではないただの孤児が、修道院長に面倒を見てもらっていたため、修道士には目の敵にされていたが。
立ち入りを禁じられていたところはあちこちにあった。そんな言うことを聞くような年頃ではなかったので、あちらこちらに忍び込んではつまみ出されてよく怒られていたものだ。お転婆な時分だった。
礼拝堂に入ったとき、裏口からニルヴァーナ修道院付属の修道騎士団――通常ニルヴァーナ騎士団の面々が姿を現していく。彼らは簡易な礼拝を行うと、外に出て行ってしまう。少しずつ彼らの姿は少なくなって――やがていなくなってしまった。
彼の姿も見れるかもしれないと思ってじっと見ていたが、彼の姿はなかった。既に出て行ってしまっていたのかもしれないし、それともまだ彼の自室にいるのかもしれない。
マーシャは彼を直接訪ねることにして、修道士たちの宿舎へと向かった。彼を含む修道士の面々が過ごす宿舎は、関係者以外立ち入り禁止となっているが、彼女だけは例外だ。
門番が一人立っていた。門番は彼女を見て、嫌そうに顔をゆがめた。
「また来たのか。団長に何の用だ」
「少しお話したいことがあって。取り次いでいただけますか?」
門番はなお苦々しい顔を隠さない。
「団長からは、お前が来たら、通すようにと命を受けている。だから通れ」
そう言いながら門番は扉を開けた。礼を言いながら中に入ったマーシャは、勝手知ったる様子で院長室――今は院長代理として執務するマルスがそこで過ごしている――に向かった。
「マルス!」
勢いよく扉を開けながらマーシャは言った。
部屋の奥で書き物をしていたらしい彼が、顔を上げた。彼女の姿を認めると、彼の険しい表情が緩んでいく。
「マーシャ、直接会うのは久しぶりだな。どうしたんだ?」
「王都に用事があって、こちらに戻ってきたんです。みなさんが王都に行ってる間、無理を言ってわたしだけ修道院に」
そうか、と彼は破顔した。
「君に会えて嬉しいよ」
木枯らしが辺りに強く吹きつける晩のことだった。借りていた本に夢中になりすぎて、トルデニーニャが眠気を感じて、本を閉じた頃にはすっかり真夜中に近い時間になってしまっていた。この時間なら寝床の中には既にリヴァルシュタインが就寝しているだろう。そろそろ寝ようと思ったトルデニーニャは物音を立てないように寝床に向かった。
「……トーマ?」
寝床では眠っているはずのリヴァルシュタインが起きていた。彼は近づいてくる彼女の気配を感じて、確かめるように声に出した。彼の呼びかけはとても頼りなげで胡乱としている。
「リヴァ、どうかしたの?」
返事をしながらトルデニーニャは彼の傍に近寄った。その顔を覗き込んで、彼女はぎょっと目を大きく見開いた。彼は熟睡しているときに叩き起こされたときと同じようなぼーっとした表情をして、両目から大粒の涙をこぼしていた。よくわからないけれど、夢見が悪かったのだろうか。
「どうしたの? 眠れないの?」
彼は胡乱な表情を彼女に向けるだけで、何も言わなかった。本当に起きているのか、実のところ眠っているのか判別がつかない。トルデニーニャは彼の腕を掴んだ。ぐいぐいと自分の方へと引っ張りながら、彼女は彼の顔を覗き込んだ。自分の姿が瞳に彼の映っているけれど、彼の瞳には違うものが映っているのだろう。
「ねえったら」
彼女はもう一度声をかけたが、返事が返ってくる気配がなかった。このままだと埒が明かない。仕方がないので、掴んでいた彼の腕を離すと、彼女は自分の寝床にもぐり込む。
「……君がいなくなる夢を見た……」
足音もなくいつの間にかトルデニーニャの側に立っていた彼が、ぽつりとこぼした。彼女はごろりと寝返りを打つと、体を起こした。
もう一度、リヴァルシュタインの腕を掴むと、自分の方へと引き寄せた。引っ張られてバランスを崩した彼が、片膝を彼女の寝台についた。自分とほぼ同じくらいの目線になった彼を、トルデニーニャはしっかりと抱きしめた。
「大丈夫。わたしはここにいるよ」
彼から息苦しくなるほど強く抱きしめ返された。彼女の腕の中で彼が小刻みに震え始める。その背中をゆっくりとさすりながら、彼女は言った。
「だから、泣かないで」
月明かりが二人を優しく照らしていた。
見たことのない速度で風景が過ぎ去っていく。どんどん血の気が失せていくのを感じながらも、ステラは馬を駆けるラインハルトの腰をしっかりと掴んでいた。丘を、街を、平野を瞬く間に駆け抜けて、一体ここはどこなのだろう。もう三時間ぐらいは馬に跨っているような気がする。
非常に疲れた。腰に回す腕の力が段々と抜けていく。そろそろ一旦休憩を入れてくれてもよいのではないか。そう思いつつ声をかけても風音に掻き消されて、自分の耳にすら届かない。一体全体、何に焦ってこんな早駆けをしているのだろう。
彼の背中に頭を預けて、ステラは溶けていく景色をぼんやりと見ていた。馬上は不規則に揺れるが、慣れれば規則的に感じてくる。規則的になると今度はそれが眠気を呼び起こす。何とかあくびを噛み殺していたが、次第にあくびは止まらなくなり、瞼が重たくなってきた。こんな状態で居眠りをするのは危険だと、重々承知しているが、眠たいものは眠たい。
ステラの腕の力が徐々に抜けていくのを感じて、ラインハルトは腰に回る彼女の腕を掴むと、馬の速度をゆっくりと落としていく。常足まで速度を落とすと、そのまま街道を走らせることにした。彼女の腕を掴みながら後ろ手に彼女の背を叩く。とんとんと軽く叩いても寝息が返ってくるだけなので、少し強めに叩いてみると身じろぎした。ううんと唸り声が聞こえて、背中に感じていた重みが消える。
「――ステラ、起きてください」
「……起きた」
しばらくして憮然とした返事あった。見なくても、ぶすっとしている表情が目に浮かぶようだ。想像して少し微笑むと、ラインハルトは掴んでいた彼女の腕を離す。再び、彼女は彼の腰にしっかりと抱きついた。
「少し休んでくださらない?」
背後から彼女の声が続く。
「さっきからずっと走りっ放しで、さすがに……これ以上ないくらい疲れたわ。わたしはあなたと同じ体力じゃないのよ」
街道を進む二人は森の中に入っていた。日は高く昇っているが、そう広い森ではない。日が暮れるまでには森を抜けるだろう。この森を抜けたら、次の街に着く。
「もう少しだけ、我慢してくださいますか」
はあ、と大きな溜息が聞こえた。ぎゅうと腰に回る腕に力がこもる。
「……あと少しだけよ」
謝意と労いを込めてラインハルトは軽く彼女の腕を叩くと、再び馬を駆け始める。