蝉時雨が降り注ぐ昼半ば。太陽に熱されたコンクリートから湯気が立ち上っているのではないかと思うほど、辺りは蒸し暑い。こんなかんかん照りでは打ち水も大した効果を持たなそうだ。
直子と匠は夏期講習の帰り道を歩いていた。別に示し合わせたわけではなく、何となく気づけば一緒になっていた。特に何か喋るわけでもなく、彼女が先を歩いて、彼がその後ろを歩いている。
(抜かしたらいいのに)
歩幅も歩く速度も違うから、きっと歩きにくいだろうに。そんなことを思いながら彼女は歩いていた。
「直子」
蝉の大合唱に紛れて、彼が呼んだことに気づかなかった直子は、もう一度、強めに声をかけられて、ようやく気づいて立ち止まった。振り返って見た彼の表情は、語調に反して穏やかだった。
「何?」
「明日も来るの?」
怪訝そうに直子は眉をひそめた。
夏期講習は必修の二日間を除いて選択制だ。推薦やら総合型選抜やらで進学先が決まっている人は、必修の二日間を受けたあとは、残り僅かな夏休みを満喫している。彼もどちらかというとその口のはずだった。決まりそうだと自分に自慢してたくらいなのだから。
「まあ、一応」
推薦を使えるほどの成績がない彼女は、普通に入試を受けるしかない。正直なところ、塾の夏期講習を受けている方が自分のためにはなるだろうけど、家のお金に余裕はない。とはいえ自宅では気が散って勉強できないために、学校に通っている。
「ふーん……そうなんだ。俺も行こっかな。練習がなかったら、毎日、暇で暇で……」
そんなことを口にする彼に何と返していいのかわからず、直子は黙っていた。
大体、彼がこういう軽口を叩くときは、何か悩んでいるときだ。でも、もう直子には彼の悩みに何か応えることはできない。それは彼が山の頂上で悩んでいるのに、自分は麓で応えているようなものだからだ。
二人の間の沈黙を埋めるように、蝉が鳴いている。慣れてくると並木路の枝葉が揺れる音や、時折強めに吹く風の音が聞こえるようになってくる。
直子が目を閉じてそれらに聴き入っていると、突然びゅうと突風が吹きつけて、ぐらりと体が傾いだ。
「直子!」
たたらを踏むこともできずに倒れる彼女の腕を、彼が掴んだ。彼の手は大きくて力強かった。
「……ありがとう」
彼女は小さく呟いた。どういたしましてと返ってくる。
「俺、明日も行くよ」
唐突に彼が言った言葉に、直子は困惑した。曖昧な返事を口にしながら、好きにすればと言いそうになったのを、やっとのことで呑み込んだ。
そんな彼女の胸中を知ってか知らずか、彼は満面の笑みを浮かべると言う。
「直子に会いたいから」
絶句する直子を見て、彼は楽しそうに笑い声を上げた。
「好きにすれば」
そう言い捨てて、直子はさっさと歩き出した。自分の顔が熱いのは、たぶん、照りつける太陽のせいだろう。
ふ、と蝋燭の火が揺れた。
閉め切った部屋の中、どこから隙間風が入り込んだのか。
マルスは目を閉じると、集中して風の流れを探る。せっかくストーブを焚いているというのに、暖気が逃げていってしまうのでは甲斐がない。
左後方から寒気を感じる。彼は椅子から立ち上がると、その方向へと歩き出した。どうやら窓が少し開いていたらしい。おそらく換気のために開けたとき、きちんと閉め切れてなかったのだろう。
彼は踵を返すと再び座った。目の前にうずたかく書類が積まれている。見るだに嫌になる量だが、誰かがやらねば終わらない。幸いにも、自分は仕事をこなしていくスピードが早い。
冷めたコーヒーを一口啜ると、彼はペンを手に取って、仕事を始めた。ガリガリとペンが紙を削る音が響く。書類の文字を追って、サイン。不要なものは破り捨てる。書類に文字を書きつけて、サイン。必要なものを封する。
いつの間にかそれらは一定のリズムを刻んでいて、さくさくさくと気づけば書類の山は半分くらいになっている。この調子で片付けてしまおう。何事も波を逃してはならない。立ち止まってしまえば、一歩も動けなくなってしまうように。
コンコンと扉がノックされた。彼は自分の刻むリズムに集中しているうちに、周りの音が耳に入らなくなってしまっているのだ。もう一度、ノックされる。彼は気づかない。
ノックの主は痺れを切らしたらしい。外で開けますよと言っているのが朧気に聞こえくる。彼は一向に返事をしない。ゆっくりとノブが回されて、扉が開いた。
その音でようやく気づいたらしい彼は、顔を上げた。そのときランニングハイならぬワーキングハイが切れてしまった。ずっと同じ姿勢で書類を見続けていたせいか、あちこちバキバキだ。彼はむっとして言った。
「誰だ?」
「わたしです。ノックは何度もしましたからね」
間髪容れずに返したのは、マーシャだった。彼女は部屋に入るや否や、マルスの机上に書類がうず高く積まれているのを見て、深々と溜息をついた。
「全く……あなたって人は……。もう真夜中ですよ。お仕事が忙しいのはわかりますけど、もう寝るべきです」
ガタンと何かが落ちる音がした。マーシャがその方向へと目線を向けると、彼が椅子から落ちていた。驚きに目を丸くして、彼女は彼の元へと駆け寄った。
「ど、どうしたの? だ……大丈夫?」
彼は地面に尻餅をつくような形になっていた。マーシャを見上げながら口を開く。
「……マーシャ? どうして君が、こんなところに……」
「そんなの決まってるじゃないですか」
彼を助け起こしながらマーシャは微笑んだ。
「あなたに会いたかったから会いに来たんです。たまたま今はドナの街にお邪魔してますから」
そうか、とマルスは嬉しそうに微笑んだ。
今日はお互いの非番が重なる日だった。早い段階でわかっていたので、トルデニーニャとリヴァルシュタインは、二人で買い物に行く予定を立てていた。
トルデニーニャの装備は使い込んでいるせいでだいぶへたってきているし、毎日猛烈な鍛錬をしているせいか剣は刃毀れしている。自分で手入れをしながら使ってはきていたが、そろそろ限界がやってきていた。そして、買い物に行くのも久々なので、日用品も買い込むつもりだ。
リヴァルシュタインは彼女の荷物持ちで付き合うようなものではあったが、質の良い物があれば買おうと決めていた物がいくつかあった。
身支度を整えて、彼の元へ向かおうとしていたトルデニーニャは、鈴の音のようなか細い声に引き止められた。振り返ると、華奢で可憐な感じな女性が立っている。着ている制服から、おそらく同じ職場ではあるのだろうが、知らない人だ。
彼女はトルデニーニャに、リヴァルシュタインのところに案内してほしいと頼んできた。今から彼の元へ行くところであったし、特に断る理由も見つからなかったので、彼女はその女性と連れ立って、彼の元へとやってきた。
彼はトルデニーニャの隣に立つ、見知らぬ女性を見て、嫌そうに顔をしかめた。
女性は彼を見るや否や、花のような笑みを浮かべて、つつつと彼の元へと駆け寄る。
「あ、あの……リヴァルシュタインさん……少しお時間よろしいでしょうか……?」
もじもじしながら口を開く女性に、対する彼はにべもない。女性を一瞥すると、
「君のこと、全く知らない上に、そもそも僕は今日予定があるんだ。知らない人間のためにどうして僕の時間を割かなくちゃいけないんだい?」
そう言い捨てて、しっしと手を振った。女性は彼をじっと見つめていたが、彼がしかめ面を崩さないので、大粒の涙を浮かべ、踵を返して走り去ってしまった。その後ろ姿を見送って、トルデニーニャは大きな溜息をついた。
足音が聞こえなくなってから、彼がげんなりした様子で口を開いた。恨みがましい目で彼女を見やる。
「君さ、ああいうの連れてくるの、本当に止めてくれない?」
彼女はむうと唇を尖らせた。
「だって、用事があるんだって言われたんだもん」
「まあ、君に悪気があったわけじゃないのはわかってるけどさ……」彼は肩を竦めた。「次からは気をつけてくれる」
「うん、ごめん。なるべく気をつける」
彼女はしゅんとして俯いたが、すぐに笑顔になって顔を上げた。
「お詫びにあなたの好きなアップルパイ作るから、許して」
彼女は手を合わせると可愛らしく小首を傾げて、悪戯っぽく笑う。
彼は釣られて笑った。つくづく自分は彼女のこの顔に弱い。
「毎日作ってくれるならね」
今日はお互い、四限で講義が終わるから、図書館の前で待ち合わせる約束だった。終了時間は一緒でも、取ってる講義は違うから、図書館から講義室が遠い郡司は急いで待ち合わせ場所に向かっていた。
ようやく待ち合わせ場所に着いたとき、そこに目当ての人物はいなかった。本が好きな彼女のことだ。先に着いたから、約束の時間まで図書館の中で時間を潰しているのだろうと当たりをつけて、郡司は図書館の入口をくぐる。
図書館の入口には、まるで駅の改札口のような機械が設置されている。ICチップが内臓されている学生証を通して、中に入ることができる。学生証がない者も、用途によっては図書館を利用できるが、その手続きは複雑だ。
一階は、比較的軽く読めるもの――主要出版社の新書であったり、学術文庫であったりがたくさん配架されている。二階以降は専門書が多くなってくるので、郡司はあまり利用しないが、一階部分の本は時折借りて読んでいる。
入って右手側奥に調べもの用のテーブルと椅子が置いてある。太い柱に隠れているため、パッと見たときに、あまり視界に入ってこない。そのため擬似的な独りの空間を作ることができる場所だ。彼女はこういうところによくいる。
郡司は当たりをつけていた場所に向かった。後ろの方からそっと覗くと――やはりいた。何やらこの図書館にはそぐわない料理本を広げているように見える。
後ろから回り込んで、彼女の真横に立つと、郡司は彼女の肩をとんとんと叩いた。驚いたらしい彼女が体を強張らせて、弾かれるように郡司の方へと顔を向けた。彼女は自分の肩を叩いたのが郡司だとわかるや否や、ほっとしたように表情を緩めて笑顔になった。
「……何だ、高千穂くんかあ。びっくりしちゃった」
そう言った彼女は、自分の腕時計を見て、あっと声を上げた。
「とっくに時間過ぎてたんだね。待たせちゃってごめんなさい」
「俺が来たのはさっきだから。俺こそ待たせてごめんな」
しゅんと肩を落とす彼女に、郡司は笑って言った。それより、と彼は続ける。
「それより、月読サン、何読んでんの? それ、レシピ本っぽいけど」
彼女はその瞬間、広げていた料理本をぱたんと閉じて、目にも留まらぬ早業で鞄の中に仕舞った。ちらりと郡司を見やる顔が見る見るうちに赤くなっていく。
郡司は困惑して首を傾げた。
「……今度のバレンタインデーに何か作れたらいいなって……」
顔色を朱に染めた彼女は、そう言うとはにかんだ。彼女のその照れた微笑みが、郡司の心を撃ち抜いて、彼はしばらく何も言えなかった。
机の上で突っ伏して寝ている彼女に、やわらかな光が差している。その様子を愛おしげに見つめると、ラインハルトは彼女に着ていたジャケットをかけた。そして、机の上に散らばっている書付をひとところにまとめて片づける。
魔術の研究が大好きな彼女は、放っておけば日がな一日、魔術の研鑽に勤しんでいる。時折、外に連れ出してやらないと茸が生えてしまうのではないかと思うほど、ずっと書斎兼研究室に籠り続けている。
彼女自身はそれで困っていないようだが、彼としては……とてもさみしい。手が離せないほど忙しそうな時は遠慮しているが、自分の手が空いているときは、彼女を何かしらに誘って外に出ている。意外にも彼女は素直に応じてくれるのだ。
彼女の寝顔をずっと見つめていたい気もするが、これ以上、部屋にいても仕方ないだろう。彼女を起こすことになってしまっては本末転倒だ。
彼は後ろ髪引かれる思いで部屋の扉を開けた――そのとき、
「……誰?」
目を覚ましたらしい彼女が顔を上げた。彼女は寝ぼけまなこをしょぼしょぼさせて、人気のある方へと顔を向けた。ぼんやりしていた姿が徐々に像を結んでいく。部屋の出入口に立っているのは――ラインハルトだ。
こちらを見る彼の顔が、何だかしょんぼりしているように見える。
「ラインハルト……? どうかしたの?」
彼女がそう口を開いたとき、しょんぼりしていた彼の顔が、見る見るうちに輝き始めた。開けかけていた扉を閉め、彼女の元に向かって歩いていく。
体を起こした彼女は、自分の肩にジャケットがかけられていたことに気づいた。この香りは彼のものだ。脱いで綺麗に畳むと、近くにやってきた彼に手渡した。
「ありがとう。これ、あなたのよね?」
ええ、と彼は微笑みながら受け取った。
「眠っておられたので、起こさないようにと思っていたのですが、結果的に起こしてしまったようで済みません」
「いいえ、いいのよ。あなたこそ、何かわたしに用事があったのではなくて?」
小首を傾げて彼女は言った。そんな仕草の一つ一つがとても可愛らしい。
「その……特に用事があったというわけではないんです」
彼は申し訳なさそうに眉を八の字にする。ただ彼女の顔を見に来ただけなのだと口にするのは、起こしてしまった手前、少し言いにくい。
「そうなの?」
不思議そうに彼女は首を傾げたが、その表情はすぐに穏やかな笑みに変わった。
「なら、テラスでお茶にしましょうよ。今日は天気がいいみたいだから」
「ええ、喜んで」
嬉しそうに頷くと、準備してきますと言って、彼は部屋を出て行く。いつもの流れで見送りかけて、わたしも手伝うわと、彼女もその後を追いかけた。