真澄ねむ

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10/11/2023, 6:00:44 PM

 簡単な任務だと言われて渡された仕事は、思いの外時間がかかった。原因はわかっている。自分の隣で水に濡れた子犬のようなしょぼくれた顔をしているアンネのせいだ。厳密に言えば、アンネが悪いのではなく、部下の力量を正しく量ることのできていないギルド長が悪いのだが。
 半日でギルドまで戻ってこれる計算だったが、もう空はすっかり暗くなっている。自分はともかく、疲弊しているアンネをギルドまで無理やり連れ帰る理由は一つもなかった。ナハトはそこら辺で適当に宿を探すことにした。一晩泊まれるのならどんなところでも構わないだろう。
「……とはいえ、これはさすがになァ……」
 方々を探してようやく見つけた宿は、ベッドが一つ置いてあるだけの狭い部屋だった。ソファなどはない代わりだろうか、そのベッドは普通よりは一回りくらい大きいベッドだ。
「オレ、適当に外で寝てくるから、この部屋はアンネが使えな」
 この世の終わりとでも言いたげなほど暗い表情をしていたアンネは、彼の言葉に弾かれたように顔を上げた。ナハトの服の裾をがっちりと掴むと、もげるのではないかと心配するほど横に首を振る。
「い、嫌です! ナハトさんがこの部屋を使ってください。わたしが外で寝ます」
 ナハトは溜息をつくと、アンネの額を指で軽く弾いた。
「バーカ、ここら辺、そんなに治安よくねェし。お前が外に行くのは絶対ダメ」
「でも……今日の失敗はわたしのせいですし、それなのにわたしがベッドを使って、ナハトさんが外で寝るって、気が引けます……」
「あれは別にお前のせいじゃねェよ。どっちかと言うとあいつの采配がアホだったんだ。だから気にすんなって」
 ナハトはそう言って慰めるが、アンネは消沈したままだ。
「けど、お前がそんなに気にすんだったら、一緒に寝るか?」
 冗談のつもりで口にした言葉に、アンネが身を乗り出して頷くものだから、彼は後に引けなくなってしまった。その方が問題があるような気がしたが、ナハトは深く考えることを止めた。
 カーテンの向こうでアンネが寝る仕度をしている。彼も取り敢えず、着けていた装備を外して部屋の隅に置くと、ベッドに横になった。まあ、自分がベッドの中に辛うじて収まったので、小柄で華奢なアンネならば、余裕だろう。
 仕度を終えて戻ってきたアンネが、ナハトの横に遠慮がちにもぐり込んでくる。しかし、安心しきったのかすぐに寝息を立て始めた。
 その彼女のあどけない寝顔を見ていると、なぜか鼓動が早鐘を打ち始める。今晩は眠れそうにないとナハトは溜息をついて、目をつむった。

10/11/2023, 5:11:28 PM

 風に乗って、薄っすらの笛の音が聞こえる。物心ついた頃から、自分を慰め続けてくれていた音が。
「――やっぱり、島が恋しいですか?」
 ロレーナに声をかけられて、島をぼんやりと見上げていたオリエは我に返った。彼はばつが悪そうに頬を掻いた。
「いや、そういうわけじゃないんだ」
 二人はこの間、めでたく結婚した。今は、彼の生まれ故郷になる島を出て、別の土地で暮らしているが、今日は久々の里帰りだ。
 ふっと遠くを見ながらオリエは口を開いた。先ほどから浮かない顔――いや、どちらかというと、愁いた顔をしている。彼がそんな表情をする心当たりが、ロレーナにはなかった。
「笛の音が聞こえるんだ」
「笛の音、ですか」
 鸚鵡返しに答えながら、彼女は首を傾げた。耳を澄ませてみるが、聞こえるのは潮騒の音のみ。ロレーナには聞こえない。
 不思議そうな顔をしている彼女に、オリエは翳りのある笑みを返す。
「君には聞こえないかもしれない。もしかすると、俺にしか聞こえていない、幻の音なのかもしれない」
 そういう彼の表情があまりにも切なげで、ロレーナは眉を八の字にした。触れてはいけないやわらかなところに触れてしまったのかも。
 もう一度、彼女は耳を澄ませた。しかし、聞こえるのは潮騒のみ。どれだけ辺りの音を手繰っても、笛らしき音は聞こえてこなかった。
「物心ついた頃から、その音を子守歌代わりにしてきててね」
 彼に両親がいたっけ。ふと疑問が浮かんだが、口にするのは憚られる。ロレーナの記憶が確かなら、この島に暮らす人々は、みんな実の親を知らない。それは、オリエとて例外ではない。
 黙り込んだロレーナに気づいたオリエは、苦笑を浮かべた。何となく彼女の頭を撫でながら言った。
「別に、親がいないのを寂しいとか、悲しいとか、思ったことはないよ。俺たちには親方様がいたから」
 ただ、少し物悲しげなその音色が、いつも心に隙間風が吹いたときに慰めてくれていた。それは、いるかわからぬ両親を想う自分を慰めるかのようであり、あるかもわからぬ故郷を思い起こさせる。そのせいか、この島が故郷というよりは、この音が自分の故郷であると感じる。ただ、それだけなのだ。
「オリエさん……あの、どこか痛いところでも?」
 振り向いたロレーナは、オリエを見て、驚いたように目を見開いた。彼の両目から大粒の涙がこぼれていたからだ。
「ああ、いや、いいんだ。大丈夫だよ」
 この情動が郷愁というのかもしれない。子守歌代わりにしてきたこの音が聞こえるとき、強い郷愁を覚える。それは耐え難いほど心を強く揺さぶって、どこからともなく熱い涙を流させるのだ。

10/10/2023, 5:47:50 PM

 おい、と肩を強く揺すぶられて、ミーナは目を覚ました。仏頂面でサザセがこちらを覗き込んでいる。ぱちぱちと数度瞬きをして、彼の姿を認めたミーナは、
「ご、ごめんなさい。急いでご飯作るね……」
 そう言いながら、しまったとばかりに飛び起きた。ようやく(とはいえ以前のことを全く憶えていないのだが)見つけた安住の地。家主の機嫌を損ねて叩き出されることだけは何としてでも避けなければならない。
「別に飯の催促をしたいわけじゃない」彼は溜息をついた。「腹も減ってないし」
 ミーナは動きを止めると怪訝そうに彼を見た。部屋の中をよく見回してみれば、窓の外から見える空の色は青く、陽光が射し込んでいた。時刻はまだ昼頃といったあたりだろうか。
「じゃあ……どうしたの?」
 彼がこんな時間に起きているのは珍しい。ミーナは内心首を傾げた。いつもは日が落ちてからでないと起きてこないのに。彼の生活サイクルに合わせるうちに、自分もすっかり夜型になってしまった。
「ずっと家の中だと退屈だろうから、たまには外に出してやろうかと思っただけだ」
 サザセはぶっきらぼうに言った。彼の言葉にミーナは目を輝かせた。
 日が暮れたら絶対に外に出るなという彼からの厳命を、ミーナはきちんと守っている。あらゆる犯罪と暴力が蔓延しているこの街では、司法は全く意味を為さないため、自分の身は自分で護るしかない。憶えていないとはいえ、どうやら何かに追われていたらしい身の上だ。一歩外に出てしまったがゆえに、またどこかに攫われてしまうかもしれない可能性は大いにある。
「つまり、この街を案内してくれるってことね! 嬉しい」
「……ど田舎にも都会にもなり切れない中途半端なただの田舎だぞ」
 彼は肩を竦めながらそう言うと、さっさと玄関の方に行ってしまった。その背中に、用意するからちょっと待ってと声をかけつつ、ミーナは急いで身支度をした。
 着の身着のまま倒れていたミーナは荷物の類を一切持っていなかった。だから着る服は、彼が持っている物を借りている。彼の服は彼女には大きすぎて、どれだけ捲っても袖口から手が出ない。彼がもう穿かないというから、彼の持っていたズボンの一つを、裾を切ってハーフパンツに改造した。彼の持っていたシャツの中で一番小さいものと、改造したハーフパンツを身に着けて、ミーナは玄関口で彼女を待っていたサザセの下へと向かった。
 こちらに向かってきた彼女をちらりと見やって、彼は何かを言いたげに口を開いたが、思い直したのか何も言うことなく口を閉じた。
 古くなり建てつけの悪くなった扉を押し開けると、彼は彼女に出るように促した。希望に満ち溢れているようなきらきらと輝いた目をして、彼女は外を見回している。
 念のため、鍵を閉めるとサザセはミーナに向かって手を差し出した。彼女は不思議そうに小首を傾げたが、すぐに笑顔に戻るとその手を取った。

10/9/2023, 4:24:55 PM

 ルヴィリアは羽ペンを持っていた手を止めると、軽く息をついた。もう三時間ほどはぶっ続けで、書類と戦っているというのに、処理せねばならない書類は机の上にまだ山のように積まれている。
「お疲れ様です、ルヴィリアさん」
 不意に声をかけられて、ルヴィリアは反射的に拳を握り締め、持っていた羽ペンを折ってしまった。恐る恐る声の方へ振り向いた。声の主の姿を認めると、彼女はほっと胸を撫で下ろした。
「……アベラルド」
「驚かせたみたいですみません」
 アベラルドと呼ばれた青年は申し訳なさそうに眉を八の字にすると、持っていたティーカップを彼女の机の上に置いた。カップから芳醇な香りが漂ってくる。
「丁度よかった。一休みしませんかと声をかけるつもりだったんです」
 ルヴィリアは張り詰めさせていた表情を緩めた。控えめな笑みを浮かべると、
「ああ、頂くよ。ありがとう、アベラルド」
 そう言いながらティーカップを手に取った。彼は彼女の礼に笑みで応じると、近くの椅子に座った。
 湯気の立つ紅茶をゆっくりと啜る。仄かな甘みが口内に広がる。今回、彼が淹れてくれたのは、アールグレイのようだ。ルヴィリアが好む銘柄だ。
「ルヴィリアさん」アベラルドが口を開いた。彼は慈愛と気づかいに満ちた眼差しを彼女に送っている。「お父上にあんなことがあって、急いてしまう気持ちは当然のこと。ですが、根を詰めて倒れてしまっては元も子もありません。どうかご自愛ください」
 カップの中身を飲み切って、ルヴィリアはソーサーにカップを置く。
「気づかい、礼を言う。……だが、せねばならぬことは山のように残っている」ルヴィリアは引き出しから新しい羽ペンを取り出した。「私はせめて、友人の遺跡探索の邪魔をせぬようにせねばならない」
 困ったように眉を八の字にするとアベラルドは苦笑を浮かべた。彼は立ち上がると、ルヴィリアの机の上に積まれた書類の山を一山、自分の近くへと移動させる。
「あっ、お前、何を――」
 咎めようとした彼女の言葉を遮るように、彼は言った。
「次期公爵として、政務補佐は何度もしたことがあります。どうかお手伝いさせてください」
 曲がりなりにも賓客として来ている者に、領内の雑事の処理の手伝いを頼むなど、我が伯爵家の名折れ。ルヴィリアは強い抵抗を覚えたが、確かに二人でこなした方が早く終わるのも事実。面子と合理、どちらを取るか悩んで、ルヴィリアは合理を取った。
「遺跡探索といい、執務といい、私はお前に甘えてばかりだな……」
 小さく溜息をつくルヴィリアに、アベラルドは穏やかな微笑みを返した。
「あなたの助けになれるのなら、何でも仰ってください」
「何でそんなに、よくしてくれるんだ」ルヴィリアは目を伏せた。「今の私に、お前に返してやれるものはない……」
「あなたが僕にとって大切な人だからですよ」
 そう言って、アベラルドは微笑んだ。はっと顔を上げて驚いたように目を見開いていたルヴィリアの顔が、見る見るうちに赤くなる。真っ赤に熟れた林檎のような顔色になった頃、彼女はとうとう机に突っ伏してしまった。

10/9/2023, 8:38:34 AM

 毎晩、ハイネは十二時の鐘が鳴るまでは、家主の帰りを待つことを習慣としていた。彼が鐘が鳴るまでに家に帰ってくることは殆どない。どちらかというと不要な習慣だと思わず自嘲してしまう。しかし、お仕着せの妻であろうと、妻という身分なのだから、家主である夫の帰りを待つのがよいのだろうと考えて、ずっと続けている。
 ゆっくりとブランデー入りのホットミルクを啜りながら、時が流れるのを待つ。遠くから聞こえる音に耳を傾けながら、とろとろとした睡魔と戯れていると、玄関のベルが鳴った。
 睡魔を蹴飛ばして、急いでハイネは玄関へと走る。ハイネが玄関扉を開けると、そこに立っていた男は驚いたように彼女を見つめていたが、すぐにぱっと輝く笑顔を浮かべた。逆にハイネは、その姿を認めて、大きな溜息をついた。
(……まあ、今日も酷い有様だこと)
 彼の着ている軍服は上から下まであちこち穴が開いているし、埃か泥か、それとも血なのかわからないが滲んで汚れている。何を生業にしているのか知らないが、こうやって毎回衣服を汚して帰ってくるのはやめてもらいたいものだ。
「お帰りなさい、あなた」
 彼女の言葉に彼は嬉しそうに答えた。
「まだ、起きてたんだね、ハイネちゃん」彼はそこで一旦口を噤むと、気づかわしげに彼女を見た。申し訳なさそうに眉を八の字にしている。「もしかして、起こしちゃったかい?」
「いえ。たまたま起きていただけです。お気づかいなく」
 そう言いながら彼女は彼に近寄ると、彼が持っていた上着を引ったくった。ざっとそれを検分すると、彼に向かって言う。
「傷の手当てをしますから、寝室に来てください」
 有無を言わせぬ口調に、彼は頷くことしかできなかった。
 二人並んで寝室に向かう。寝室には彼がいつ帰ってきてもいいように、ハイネは色んなものを揃えていた。彼に寝台に座るように命じ、彼女は手当ての準備を始めた。コットンと消毒液、ガーゼと包帯、そして濡れたタオル。
 振り向いて彼の様子を見て、ハイネは再び溜息をつく。シャツを脱いで露わになった彼の上半身には、腕や腹部に多数の切創や擦過傷があった。しかし、一見したところ深い傷はなさそうだ。
 内心でほっと胸を撫で下ろし、ハイネは傷口の消毒を始めた。ひどく滲みるだろうと哀れみを覚えたが、遠慮容赦なくハイネは消毒を施していく。時折、彼は呻き声を上げるが、彼女は無表情を務めた。
「あなたが何をなさっているのか存じ上げませんけど、毎度毎度、怪我をして帰ってくるのはやめてください」
「ごめんごめん」
 彼女の言葉にいつもの調子で軽口を叩こうとした彼は、彼女の手が震えているのに気づいて口を噤んだ。
 ハイネは彼の頬に消毒液を含ませたコットンをあて、優しく血を拭いながら、小さくこぼした。
「……ヴィルヘルム、心配させないで……」
 彼は彼女の腕を掴むと自分の方へと引き寄せた。体勢を崩して倒れ込む彼女を抱き留めると、強く抱きしめる。
「ごめんね。これから気をつけるよ、ハイネちゃん」
 そうしてください、と彼女は彼の腕の中でつぶやいた。

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