毎晩、ハイネは十二時の鐘が鳴るまでは、家主の帰りを待つことを習慣としていた。彼が鐘が鳴るまでに家に帰ってくることは殆どない。どちらかというと不要な習慣だと思わず自嘲してしまう。しかし、お仕着せの妻であろうと、妻という身分なのだから、家主である夫の帰りを待つのがよいのだろうと考えて、ずっと続けている。
ゆっくりとブランデー入りのホットミルクを啜りながら、時が流れるのを待つ。遠くから聞こえる音に耳を傾けながら、とろとろとした睡魔と戯れていると、玄関のベルが鳴った。
睡魔を蹴飛ばして、急いでハイネは玄関へと走る。ハイネが玄関扉を開けると、そこに立っていた男は驚いたように彼女を見つめていたが、すぐにぱっと輝く笑顔を浮かべた。逆にハイネは、その姿を認めて、大きな溜息をついた。
(……まあ、今日も酷い有様だこと)
彼の着ている軍服は上から下まであちこち穴が開いているし、埃か泥か、それとも血なのかわからないが滲んで汚れている。何を生業にしているのか知らないが、こうやって毎回衣服を汚して帰ってくるのはやめてもらいたいものだ。
「お帰りなさい、あなた」
彼女の言葉に彼は嬉しそうに答えた。
「まだ、起きてたんだね、ハイネちゃん」彼はそこで一旦口を噤むと、気づかわしげに彼女を見た。申し訳なさそうに眉を八の字にしている。「もしかして、起こしちゃったかい?」
「いえ。たまたま起きていただけです。お気づかいなく」
そう言いながら彼女は彼に近寄ると、彼が持っていた上着を引ったくった。ざっとそれを検分すると、彼に向かって言う。
「傷の手当てをしますから、寝室に来てください」
有無を言わせぬ口調に、彼は頷くことしかできなかった。
二人並んで寝室に向かう。寝室には彼がいつ帰ってきてもいいように、ハイネは色んなものを揃えていた。彼に寝台に座るように命じ、彼女は手当ての準備を始めた。コットンと消毒液、ガーゼと包帯、そして濡れたタオル。
振り向いて彼の様子を見て、ハイネは再び溜息をつく。シャツを脱いで露わになった彼の上半身には、腕や腹部に多数の切創や擦過傷があった。しかし、一見したところ深い傷はなさそうだ。
内心でほっと胸を撫で下ろし、ハイネは傷口の消毒を始めた。ひどく滲みるだろうと哀れみを覚えたが、遠慮容赦なくハイネは消毒を施していく。時折、彼は呻き声を上げるが、彼女は無表情を務めた。
「あなたが何をなさっているのか存じ上げませんけど、毎度毎度、怪我をして帰ってくるのはやめてください」
「ごめんごめん」
彼女の言葉にいつもの調子で軽口を叩こうとした彼は、彼女の手が震えているのに気づいて口を噤んだ。
ハイネは彼の頬に消毒液を含ませたコットンをあて、優しく血を拭いながら、小さくこぼした。
「……ヴィルヘルム、心配させないで……」
彼は彼女の腕を掴むと自分の方へと引き寄せた。体勢を崩して倒れ込む彼女を抱き留めると、強く抱きしめる。
「ごめんね。これから気をつけるよ、ハイネちゃん」
そうしてください、と彼女は彼の腕の中でつぶやいた。
黙々と二人は丘陵地を歩いていた。緩やかな斜面をひたすら上に上にと登っていく。
空には満点の星空が広がっていて、見るも鮮やかで綺麗だった。
自分を先導するように前を歩いている彼の目的地を、フィエルテは知らなかった。彼は時折立ち止まると空を見て、何かを確認すると再び歩き出す。フィエルテは取り敢えず、それに着いて行く。それを繰り返しているうちに、二人は洞窟の入口の前に立っていた。
彼は振り返った。
「今夜はここで休むぞ」
そう言うと躊躇いもせずに中に入っていく。洞窟の中は真っ暗で何も見えなかったが、フィエルテも彼に続いて、中に足を踏み入れた。
闇の中でも彼の姿だけは、仄かに発光しているかのように明るくはっきりと見える。それは彼もそうで、フィエルテの姿だけは闇夜でも見失うことはなかった。彼はフィエルテが来たのを認めると、カンテラを燈した。ぱっと辺りが明るくなる。
「着いてこい」
カンテラの灯りに照らされる洞窟の内部は、天井からは苔が垂れ下がり、地面には茸が生えている。いかにもじめじめしてそうなところだった。しかし、風通しがいいのか、湿った臭いは感じなかった。
すぐに突き当たりに辿り着いた。どこにも分かれ道がなかったから、この洞窟は一本道のようだ。ここで行き止まりらしい。そうフィエルテが思っていると、彼はおもむろに壁の一角に手を当てる。訝しく思う間もなく、その手が奥へと沈んだ。
カチッという音が鳴ると、鈍い音を立てて突き当たりの壁が動き、扉が姿を現した。目を瞠るフィエルテをよそに、彼はその扉を開けると、振り向いて彼女に中に入るよう促した。恐る恐る、彼女は中に足を踏み入れる。螺旋階段があった。
彼は再びカンテラを持って先導する。照らされる地面は土から石畳に変わっており、壁も石壁になっている。階段を登り切った先の部屋に入って、ようやく彼は足を止めた。
小窓から星光が射し込んでいる。
「ミラさまはここに来たことがあるのですか?」
部屋の中を見回しながらフィエルテは言った。ああ、と彼は頷くと近くのテーブルにカンテラを置いた。持っていた荷物を部屋の隅に置きに行く。
「元は監視塔の役割をしていた古い隠れ家だ。何度か使ったことがある」
そうなんですか、と相槌を打って、フィエルテは近くにあった椅子に座った。その椅子に座って少し上を見ると、ちょうど視線上に小窓の外が見える。
「どうしてミラさまは、道で迷われないのですか?」
ぼーっとフィエルテは星を見ながらぽつりと問う。乾物をテーブルの上に出していたミラは、彼女を見ることなく言う。
「北の位置さえわかれば、迷うことはない」
「ミラさま、コンパスもお持ちじゃないのに、どうやって北の位置を知っておられるのですか?」
「北極星だ」
彼女の問いに彼は事もなげに返した。彼女は小首を傾げたのを見て、ミラは片眉を上げた。
「知らないか?」
フィエルテはふるふると首を横に振った。そうか、と彼はつぶやくと、彼女の傍に歩み寄る。彼女がぼーっと見ている方向に同様に視線を向けると、口を開いた。
「俺の指す方をよく見ていろ」そう言いながら、ミラは小窓の外に広がる星空のある一点を指した。フィエルテは目を細めて見ている。「あれが、北極星だ。よく見ていると、あの点を中心にして空が回転しているように見えるだろう」
ミラに言われないとどれがその北極星かわからない。フィエルテはもう一度小首を傾げた。その様子を見て、彼は小さく息をついた。
「そうだな……北極星の目印として、あの星座を憶えておくといい」
フィエルテは彼が指す方をじっと見た。一際明るく輝く星の近くに、Wに並ぶ星々が見える。
「北の位置さえわかれば、どこであっても然して迷うことはない」
「ありがとうございます」
フィエルテははにかんだ。その可憐な笑みに思わず釣られて、ミラも小さな笑みを口許に浮かべる。
「さあ、もう寝るぞ」
彼は寝台に横になると、毛布を広げた。フィエルテに隣に来るように促す。彼女は花開くような満面の笑みで、彼の横に滑り込んだ。
あっという間にフィエルテは寝息を立て始める。彼女のあどけない寝顔を見ていると、いつだって彼は彼女を自分の悲願のために利用する罪悪感と、護ってやりたいという庇護欲が湧いてくるのだった。
久しぶりに故郷に帰ってきた。帰ってこれた、が正しい表現かもしれない。
マーシャは幼少期、養父母と初めて顔を合わせたその数時間後に、乗っていた馬車を盗賊に襲われ、養父母は殺され、自分はどこかに攫われた。攫われた自分はそのまま人買いに売られ、彼女が最終的に行き着いたのは人使いの荒い豪農の家だった。
容貌がすっかり変わってしまうほどの生活を送っていたが、因果応報なのか豪農は強盗に襲われて全滅してしまった。自分も強盗に追われて、逃げ惑っていたところを通りすがりの旅人に助けてもらった。
恩人はマーシャの話を聞き、言った。自分は故郷を滅ぼした魔導師を追う旅の途中だが、その途中で君の故郷を通ることもあるかもしれない。それでよければ共に来ないか、と。
願ってもないことだ。マーシャは二つ返事で頷いた。今の自分には故郷に戻る手段がない。そもそも故郷がどこにあったかわからない。旅の道中に出没する魔物を倒す力も、そもそもの路銀もない。何もなかったからだ。
そして、恩人の旅に同行してあちこちを巡る中、ようやくマーシャは自分の故郷――育った場所が、ニルヴァーナ修道院であったことを突き止めた。折しも、その修道院がある大陸で魔導師を目撃したとの噂を耳にしたので、渡りに船とばかりにやって来たのだった。
修道院の門の前で、マーシャは何度か深呼吸をした。
(彼は……わたしのこと憶えていてくれてるかな……)
ずっと連絡をしてなかった薄情者だと思われているかもしれない。緊張で手が震えてくる。
門の前でぐずぐずする彼女を見かねた仲間が、彼女の背中を押して、門の中へと入れる。激励の言葉を受けて、意を決して彼女は中へと足を踏み入れる。
聖堂の中で祈りを捧げ、外に出ようとしたときに、マーシャは誰かに名前を呼ばれて振り返った。そこには目的の人物が訝しげに彼女を見つめている。
「……マルス?」
恐る恐るマーシャがその名を口にすると、彼は頷いた。マーシャは体が震えてきた。何かのきっかけで涙が決壊してしまうかもしれない。
彼はゆっくりとこちらへと近づいてくる。彼はマーシャの真正面に立つと、彼女の手を取り、強く握り締めた。そして、彼は穏やかな笑みを浮かべると言った。
「また会えて、言葉では表せないほど嬉しいよ、マーシャ。君が生きてくれていてよかった」
もう駄目だった。マーシャの両目から涙の粒がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「わっ……わたしも、嬉しいです……っ」
そう言いながら、しゃくり上げる彼女を彼は強く強く抱きしめる。彼の温かな胸の中で、マーシャはずっと泣いていた。
マルスはニルヴァーナ修道院附属聖堂騎士団の団長という身分であったが、個人としては神への信仰心は薄かった。もちろん、弁えているので、口にしたことはなかったが。
孤児となった自分を拾ってくれた恩師が、修道院長であったという縁で、彼は見習い修士としてニルヴァーナ修道院に入った。そのまま成り行きで修道士となった。もっと学びたいことがあるのだと恩師を説き伏せて、しばらくは王都の大学院で神学や修辞学など、種々の学問を修めて帰ってきた。
彼が王都から戻る頃、各地に魔物の出没の報が出始めており、各国が自国の防備に力を入れ始めるようになった。ゆえに、修道院もせめて修道院領内の領民を護る力が必要だと修道院長を説得し、聖堂騎士団を立ち上げた。所属する者はニルヴァーナ修道院の修道士たちで、マルスが当初想定していたときより人数が増えている。
まあ、騎士団というのは名ばかりで、やっていることは傭兵のようなもの。依頼を受けて派兵し、依頼を終えて報酬を貰う。
マルスは団長でもあったが、何かの依頼に対して先鋒を務めることも多々あった。どちらかというと、各地を飛び回って依頼をこなしているのは、マルスであった。
彼には一つどうしても叶えたい願いがあるゆえに、各地を飛び回っている。それは、幼少期の頃に別れてしまった幼馴染との再会だ。
彼女もマルスと同様に孤児だった。修道院の門の傍に捨てられていたのを、修道院長が拾い、育てていた。マルスとは特に仲が良く、彼女と共に過ごした日々は、彼の中での大切な思い出だ。
ある日、彼女は彼女の養父母となった夫妻と共に、馬車に乗って南西部の方向へと出発していった。それが最後に見た姿だ。それ以来、杳として消息が知れない。
あちこちの依頼を受け、こなし、報酬を得て、信頼を積み重ねていく。そうして培った人脈を駆使して探しても、全くと言っていいほど消息は掴めず、手がかりすらなかった。
マルスは捜索が空振りに終わるたびに、彼女の無事を神に祈らざるを得なかった。場所さえわかるのであれば、直接、彼女の無事を確かめ、また護ることができるのに。そのような素朴な願いの祈り先として、彼は神を信仰していると言えよう。
彼女の消息が不明になって、十年が経ったとき、たまたま修道院に立ち寄った旅の一行にいた女性に、彼は彼女の面影を見た。思わず彼女の名前を呼ぶと、その女性は立ち止まって振り返った。幼少期の彼女と見た目が全然違っていたが、その顔を見て彼は確信した。
「……マルス?」
ああ、と頷くと彼女はわなわなと震え始めた。彼女の手を取って強く握り締めると、マルスは言った。
「また会えて、言葉では表せないほど嬉しいよ、マーシャ。君が生きてくれていてよかった」
「わっ……わたしも、嬉しいです……っ」
そう言いながら、泣き出した彼女を彼は強く強く抱きしめた。
神を強く信仰していないゆえに、彼は奇跡という言葉があまり好きではなかった。特別という言葉への修飾語のようなものと思っていた。しかし、偶然と偶然が重なり合った結果、彼女と出会い、そして再開できた。これを奇跡と呼ばずして何と呼ぼう。
それ以外、彼は考えを改めた。何か人智では説明の及ばない何かの概念として、神を信じるようになったのだ。
日が暮れていく。遠い山の端に太陽が身を隠そうとしている。
空が水色から橙色へと変わるこのあわいの時間が、フーリエは苦手だった。闇が濃くなり始めて、辺りは薄暗くなるのに加えて、未だに顔を覗かす太陽の光がその陰を濃くするからだ。
明暗が鮮烈で周囲がよく見えなくなる。
すっかり日が沈んでしまえば、ランプが辺りを照らすものの、この半端な時間帯はまだ誰もが自然光に頼る。半分くらい夜に足を踏み入れているというのに。
「フーリエ」
静かに名を呼ばれて、彼女ははっと顔を上げた。彼がこちらを見ている。
「黄昏が恐ろしいか?」
その声にあまり感情はなく、ややもすれば冷たく聞こえる声音だが、確かに心配の色が見えた。彼は不器用なひとなのだ。彼と旅を続けるうちに、彼女はそう悟った。
「……いえ、黄昏だけが怖いというわけではないのですが……」
「お前は闇を嫌っていたな」
はい、と彼女は頷いた。フーリエが苦手なのは、黄昏だけではなく、黄昏時から始まる夜だ。闇が恐ろしいのだった。幼い頃に、やっかみ半分で暗所に長時間閉じ込められて以来、大の苦手になった。
「黄昏時は逢魔時とも言い――」彼は皮肉気に笑った。「魔物や大きな災禍に遭う時間帯とされてきた」
「……もう、脅かさないでください、アグニム様……」
彼女は小さな溜息をついた。より一層、この時間帯が嫌いになりそうな話を聞かされてしまった。元よりいい思い出がないから、これ以上嫌いようがないけれど。
彼は沈みゆく太陽を見ながら口を開いた。
「恐れることを恥じることはない。恐れるものがない者はただの蛮勇だ。恐れるからこそ克服しようとするのだから……」
その声音に不穏なものを感じて、フーリエは彼を見つめた。彼女の視線に気づいたらしい彼は、彼女を見つめ返した。彼女の眼差しの意図が読めずに彼は小首を傾げたが、
「別に克服しろと言っているわけではないぞ」
そう言うと悪戯っぽく笑った。フーリエに向かって彼は手を差し伸べる。
「恐ろしいのなら、いつだって手を引いてやるとも」
彼の言葉に彼女ははにかむと、その手を預ける。彼女の細い手を握り締めて、アグニムは先導するようにゆっくりと歩き始める。
彼女には見えないその口元には、知らず知らずと微笑が浮かべられていて、橙色のやわらかな色が彼の怜悧な横顔を優しげに見せている。