絆。キズナ。
良い言葉だけど、"絆される"と読むと、束縛の感じが強くて途端に厭な言葉になる。
言葉のイメージは小説を書く上で大事にしている。青春を描くなら絆、爛れた大人の関係を描くなら"絆される"。
こういう変化を見つけることが、最近楽しくなってきている。
たまにはSNSを見ない一日をつくってみるか……無理だな
大好きな君に、できることは何もない。
もうこの世にはいない小説家。私が生まれるより前に亡くなった人。
その人の生きた証である数々の作品を読んでは、もしこの人がいま生きていたら自分はどうしていたのかと思う。
同じように好きになれただろうか。そもそも興味を持っただろうか。
もし同じように好きになったとしても、ファンレターとかは書かないし、会いたいとも思わない。SNSもできればフォローしたくない。
時間的に遠くにあることもしくは隔絶されていることが、私が推しをつくる条件になっている。
我が家のお雛様は美人だと母は得意そうに言う。
母は私よりもひな祭りを楽しんでいる。
あられも買うし、ちらし寿司や蛤のおすましも作る。すべて、お雛様にお供えするためだ。人間はついで、お雛様のおこぼれに預かれるだけに過ぎない。
以前はお雛様が美人だから何だ、ひな祭りが何だと思っていたが、ここ数年は違う。
母が毎年、生き生きとひな祭りの準備をしている姿はどこか励まされるような気持ちにさせられる。
季節を感じること、季節の行事を楽しむこと、その準備に手間をかけること、物を大事にすること、お気に入りをつくること。
そういうことを積み重ねて、生きていけばいいと教えてくれている気がする。
たった一つの希望が生まれるのは絶望的状況だ。
状況を打開する策が一つしかないという場面は、それぞれ別々の方向を向いていた人々の心が一つに合わさるという感動の名場面を生み出す。
団結し、強固となった意思は絶望を打ち砕き、物語はハッピーエンドで幕を閉じる。
王道展開だが、何より胸を打つシナリオであると思う。