誰もがみんな、幸せではない。平等ではない。
誰もがみんな、と括っても必ずそこからあぶれる人が出る。
今はそのあぶれてしまう人たちも受け入れようとする多様性の社会が目指されているけれど、そんな社会は神様にしか作れないんじゃないかとたまに思ってしまう。
社会、共同体の限界を見ているようで、人間はこれ以上進化しないんじゃないかと、SNSを見るたびに勝手に諦めている。
横光利一の「春は馬車に乗って」という小説をご存知だろうか。
存じない方がいたら、是非とも読んでいただきたい。青空文庫で読むことができる。
病気で余命間もない妻とその夫の、療養中のことを小説にしたもので、作家本人の体験がもとになっている。
史実ではこの妻と一緒になるまでに妻の家族からの反対や、一緒になってからも自分の母と仲が険悪になり、苦労しっぱなしのところへ妻の病気が発覚する。
妻、と表記しているが、彼女の家族の許可を得て籍を入れられたのは彼女の死後のことである。
看病する側の言い分、病人の苦しみと本音。
この小説ははじまりから終わりまで無力感と諦念がもたらす美に満ちている。
その美が流れ星のように儚く消え果てる最後のときがこの物語の終幕となる。
このお話を読み終えたとき、あなたはきっとスイートピーの花束が忘れられなくなるだろう。
「スマイル」なんて使うのはマクドナルドのスマイル0円くらいではなかろうか。
そのせいか、スマイルというと単に笑顔というより営業的で嘘くさい。新興宗教じみたものすら感じて、どこか不気味だ。
このイメージを払拭したくて「smile」の語源をネットで検索したが、ここに載せるために真偽を確かめるのが面倒で途中でやめた。
スマイル。スマイル。スマイル。スマイル。
繰り返すとやっぱり胡散臭い。
スマイルを強要してくる人間には注意したほうがいいだろう。
ここに書いたらどこにも書けないことではなくなってしまうだろうが。自重する。
時計の針が動く音をここ何年も聞いていない。