溢れてくるのは必ずしもプラスの気持ちばかりではない。
負の感情だって溢れてやまないときがある。
そういうとき、どうするのか。
そこで人間性は決まると思う。
3日前にしたチュウ、覚えてる?
源氏物語は約千年前に書かれて、今では日本を代表する古典として、人々に親しまれている。
源氏物語はきっと次の千年も無事に越すのだろう。何となく、そう思える説得力がある。
では、今、生まれてくる物語は千年後まで残ることができるだろうか?
千年後、源氏の千年後の古典として親しまれているのだろうか?
誰の書いた何の物語がこの時代を代表するような名作古典となるのか、知るよしもないのにわくわくする。
好きなゲームのあるキャラクターの象徴が「勿忘草」だったことがある。
私はそのキャラクターのことをそこまで好きではなかった。言動がキツいし、結論が極端で、共感しづらい(そうならざる得なかった事情は理解できる)。
だがあるとき、そのキャラクターをメインに据えた二次創作と出会った。これがとても面白かった。
その二次創作、小説は心理描写が上手で、私が共感できなかったキャラクターの胸の内を的確に表現していた(無論、その人の解釈によるものではあるが、かなり納得できるものがあった)。
ではそれでそのキャラクターのことを好きになったかというと、そんなことはなかった。
好きになったのはその小説を書いた作者のほうだった。
その人の書く小説はすべて何回も読み直し、ブログも隅から隅まで読んだ。楽しかった。
もう何年も前のことだが、今でも思い出してはすでに更新の途絶えたサイトを覗きに行っている。
あなたのことは今でも忘れていません。
最高の作品とたくさんの言葉を残してくれてありがとう。
公園を通りすぎるとき、ブランコが見えると、「ああ、こぎたいな」と思う。
大人になってから、ブランコに乗ることはなくなった。
だって目立つから恥ずかしい。子どもから「ママーあの人、大人なのにブランコに乗ってるー」なんて指を指されたら辛い。
それにブランコのほうが大人である私を拒んでいるときもある。昔ながらのブランコは撤去されて、子どもにしか座れないようなブランコが設置されているところがある。
だから、まだ私が乗れるようなブランコが残っているのを見ると、嬉しくなる。嬉しさも相まって、乗りたくなる。
私が何の躊躇いもなく、気持ち良くブランコに乗るためには、大人という外聞を捨て去るか、この世界の大人全員がブランコに乗るか。そのどちらかしかない。
願わくば、後者のほうであってほしいと思うばかりである。