「よーい、スタートっ」
右手の中にいるストップウォッチが「00:00:00」から勢いよくカウントを始める。
200mのインターバルをこなす後輩たちを交互に見ながら、久しぶりのこの感覚がとても心地よかった。
「アイツのペースはどう?」
走る部員たちにゲキを飛ばしながら、
マネージャー補佐に入っている私に声をかけてくる。
「いい感じですよ、主将」
「マネージャー、オレは部活引退しているんだから、もう主将じゃないよ」
「私も引退しているから、マネージャーじゃないよ、主将」
近くでストレッチをしている部員たちが、アハハと笑う。
その声は温かさを含み、向けられた視線は安堵を纏わせている。
その向けられた先にいる当事者は今、何を思っているのだろうか。
すると、知ってか知らずか、決意とも取れる言葉をそっと呟いた。
「時計修理技能士の試験を目指そうと思っている」
春が訪れようとしていたころ、大きな怪我を負った主将は、高校最後の大会に出ることが叶わず、そのまま、彼の陸上競技人生も幕を閉じた。
情熱を注いでいた陸上を失い、彼は進学そのものを諦めかけていた。
マネージャーとして何をしてあげればよかったのか分からぬまま、悶々と過ごしていた夏休みのある日、
日本人が世界的な時計のグランプリを受賞したという記事を見つけた。
「腕時計とか結構好きでさ。社会人になって給料をもらったら、いい腕時計を買いたいんだよね」
彼とのそんな会話を思い出し、1名分で予約した時計づくり体験に半ば無理やりに連れ出した。
気が紛れるなら何でもよかった。
だけど、まさかこれほどまでに手先の器用さを見せつけられることになるとは思いもしなかった。
職人の方が話す工程を真剣に聞きながら、1つ1つ慎重に組み立てていく姿からは、彼本来の真面目さが滲み出ていた。
小さなネジを留め終えると、大げさに息をふーっと吐き出した。
「小さいとき、家にあるラジオを分解しかけて、めっちゃ怒られたことを思い出した」
そう話す口角はうれしいほどに上がっていた。
組み立てた腕時計は、料金を立て替えたという理由で、私が受け取ることになった。
あれから彼なりに調べて、悩んで、そして覚悟を決めたその目は、新しい未来へとしっかりと向かっていた。
時計職人になるためには、国家試験である時計修理技能士の資格が必要で、春になったら、県外の専門学校へ進学して本格的な勉強を始めるつもりらしい。
あの日もらった腕時計は、休日限定で大事に使っていることを彼は知らない。
私は教えないと心に決めている。
これが、まっさらな挑戦に立ち向かう彼への、私なりのエールだと思うから。
【0からの】
今日は金曜日。
終業予定時間から15分が過ぎたが、今日中に入力を終わらせておきたいファイルがまだ残っている。
少々古い入力システムを使っているせいで、
要所要所に自分で保存ボタンを押さなければならない。
そのマニュアルを遵守しなかった後輩は
午後の作業が水の泡になっただけでなく、
苦手な上司からキツく注意を受けるハメになった。
同情はしない。でも、入力作業は引き受ける。
分担して作業したほうが早いでしょ、と言ったら
後輩は涙目になっていた。
本当は定時で上がるつもりだったが、予定通りには進んでくれないものだ。
飲み物がなくなりかけていたので、
カフェインレスのコーヒースティックを1本持って、給湯室に向かう。
コーヒーをひと口、少しだけホッとする。
あとどのくらいで終わるだろうか。
デスクに戻ると、同期が取引先との打ち合わせから帰ってきていた。
「あれ?直帰じゃなかったの?」
「出し忘れてた資料を思い出してさ。それより、見てこれ」
こそこそしながら、パソコンの画面を指差してくるので、
マグカップを持ったまま、画面を見る。
そこには「同情」と表示されていた。
驚いて同期の顔を見ると、小さくニヤリと笑う。
「簡易資料ならさ、上の行と同じ内容だったら…」
「上と同じの、同上ね」
「そうそう、そのつもりで変換したら、一番最初にこれが出てきた。すごくない?今のこの状況で」
いや、普通は笑えないだろう。
でも、この状況を知って戻ってきたということらしい。
しばらくして、後輩のデスクに向かった同期は、
未入力のファイルを受け取り、
結局全部終わるまで一緒に作業をしてくれた。
「今日はすみませんでした!本当に、先輩方ありがとうございました!」
使っている駅が違う後輩とは会社の前で別れて、同期と駅まで歩いていた。
「同情したから、手伝いに戻ってきたの?」
「ミスをした子には同情したかな。ミスはダメだけど、
今の時代、システムでカバーできることも多いのに、
この環境に置かれてしまったことは同情に値する」
「うちのシステム、化石だからね」
「それに、後輩のミスをカバーするのもオレたち先輩の役割だろ。だから、同期に対しては、同情じゃなくて共鳴かな」
また、ニヤリと笑っている。
ちょっと、ムカつく。だけど、肩の力が抜けた。
「なんか、お腹が空いたあ」
「お、じゃあ、駅前でラーメンでも食う?」
「ラーメンって気分じゃないなあ。マッハで働いたあとだから、せめて食事くらいはゆっくりしたいよ」
いい同期を持っていると知ることのできた金曜日。
さっきまでとは明らかに違う、清々しい気分に変わっていた。
【同情】
リビングの一角を手形アート会場に変えてみた。
ダンナが娘を外へ連れ出してくれた時間を利用して、
折りたたみの机に白い大きな模造紙を敷き、
色とりどりのスタンプ台と、用意できるだけの画用紙を広げる。
「公園に行ってきたぁ」と元気よく娘が帰ってくるや否や、
一目散に机に向かって駆け出し、スタンプ台を取ろうとする。
なんとか制止に成功して、うがい手洗いをさせてから解放すると、そこからはもう大騒ぎだった。
スタンプ台で色を付けたその手をペタペタと押しまくり、
押した手形に顔を書き込んでいたかと思えば、
今度は黄色とオレンジの色を混ぜ始める。
どうやら、さっきの公園で見つけた枯葉をヒントにしているらしい。
押すたびに少しずつ、黄色やオレンジの出方が変わり、
納得いくまで、小さな手形を押しまくっていた。
だから今、リビングのあちこちに手形の葉っぱが愛おしく散らばっている。
「やっと寝てくれたよ」
その夜、興奮が冷めない娘をなんとか寝かしつけ、リビングに戻ってくると、
さっきまで手形アート会場だった机に向かうダンナの姿があった。
「相当気に入ったんだね、大成功じゃん」
振り向いたその手には、娘の手形アートがあった。
机の上には、絵の具やパレットが並んでいて、
娘の手形で描かれた綺麗な枯葉を囲むように、
淡くて優しい色合いの花がたくさん描き込まれていた。
「すごい、素敵だね」
「絵の具で絵を描くなんて、卒業して以来だよ」
どうやら、夢中になっている娘を見て、
制作意欲が刺激されたみたいだった。
「せっかくだから、何か書いてよ」
ダンナのようには上手く絵は描けないけど、
この絵に合うクレヨンを一色選び、
娘の名前と日付を丁寧に書き入れる。
この絵のタイトルは「枯葉が春を連れてくる」って感じかな。
ふたりでそんな話をしながら、朝が来るのがとても待ち遠しかった。
【枯葉】
待ち時間90分。
楽しみにしていたアトラクションは、行列だった。
気にせず列に並んだら、2単語しりとりが急に始まり、それからずっと小声でバトル中だ。
「期末テストに出てきた連立方程式」の「き」!はい、どうぞ!
ちょっとぉ、オレの期末の数学、破滅的だったこと知ってるでしょ?しかも、また「き」だし。
2単語を使った言葉のしりとりのはずが、いつの間にか、単語数のカウントは曖昧になっている。
「き」から始まる、カッコいい言葉が出てこねぇ。そうだ!「キョウにさよなら」ってどう?
京?都を去るサムライ、みたいな?
違う違う!Todayの今日!「今日にさよなら」って、なんかカッコよくね?
えー、そうかな?
気がつけば、私たちの乗車する順番になっていた。
「お二人様ですね。では、1番からお乗りください」
こういう絶叫系のアトラクション、私は意外と平気だ。
しかし、となりはどうだ?
いよいよ順番が回ってきたというのに、となりは急に黙り込む。
もしかしてだけど、ビビってたりする?
走り出す直前に顔を覗き込んで尋ねてみる。
あー、実はちょっとビビってる。
一瞬、視線を外されたが、すぐさま観念した笑顔でこっちを見てきた。
そっか、バレてるかー、そっかー、うわ、動き出した、
イヤだなー、チクショー、今日のオレはここまでかー、
あー、さよならー、今日にさよならーっ、ぐわーーー!!!!!!
アトラクションに乗っている間、私はずっと大笑いしていた。
たぶん降りる瞬間、態勢を立て直すつもりで、カッコよく手を差し伸べてくるだろう。
だから私はその手をとって、「来月もまた来ようね」次は「ね」!って、しりとりを続けてやるんだ。
しりとりの続きだって気がつくかな。
そんなことを考えていたら、なんだか可笑しくて、必死に耐えている横顔を見ながら、ずっと大きく笑っていた。
【今日にさよなら】
ヤバい、ヤバいっ、
きっと、これは私のお気に入りになる。
遡ること、数ヶ月前。
あまりの忙しさに発狂しかけたとき、
ここを乗り越えたらご褒美を買う!
そう言って、自分と約束をした。
怒涛の忙しさを抜け、ようやく仕事に一段落ついたころ、
向かった先は、ご褒美と決めていたジュエリーリフォーム。
年齢を重ねると自然とシワが増えていき、だんだんと似合うものが変わってくる。
環境が変われば選ぶものも変わり、10代や20代のころに選んだアクセサリーは今は身に着けることがなくなった。
学生のときにアルバイト代で買った小さなピアス。
初出社のときに着けていたお守り代わりのピンキーリング。
一目惚れした誕生石の付いた一粒ネックレス……
お気に入りだった、と過去形にして終わらせるのは、何だか違う気がした。
そんなときに出会ったのが、ジュエリーリフォームだった。
歴代の私が集めてきたお気に入りたちをまとめて職人さんに託した。
このコたちで指輪を作ってください!
そして完成した指輪が今、右手の薬指に鎮座している。
右手をかざすと、地金に埋め込まれた小さな石がさりげなくキラリと輝く。
お気に入りのアベンジャーズや。
終始、ニヤけているのが自分でもわかる。
アベンジャーズって、
ダメだ、語彙力が崩壊している。
苦笑いを誤魔化したくて、思わず両手で顔を隠す。
次の瞬間、また右手をかざし、ニヤニヤしてしまう。
もっと仕事頑張らなくっちゃ。
そっと指輪を撫でながら帰路につく足取りは、とても軽やかだった。
【お気に入り】