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11/17/2022, 5:33:51 PM

 窓の外はしとしとと雨が降っている。数時間前より幾分か弱まったそれをぼんやりと眺めて、ことりとテーブルに何かが置かれる音でハッと我に帰る。湯気の立った黒いマグカップ。中に入っているのは、最近彼女が友人から貰ったというコーヒーだろうか。
「あ、戻ってきた。猫みたいに一点を見つめてるから何事かと思った。何か気になることでもあった?」
「いや、ちょっと疲れただけ。ううん、もう少し楽に終わるかと思ってたんだけどな」
「冬物は嵩張るからね。ほら、そろそろ休憩にしよう」
 右手にマグカップ、左手にチョコレートを乗せた皿を持った彼女がにっこりと微笑む。穏やかな声と甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。足下に散乱する服を見下ろして、ため息をついて俺は彼女の待つテーブルに向かった。服の山はあと2つ分。まだまだ衣替えが終わるには時間がかかりそうだ。
 彼女とのルームシェアを始めて、季節がひとつ、ふたつ、みっつめも半ばを過ぎた。あともう数週もすれば、よっつめの季節が幕を開けるわけだ。共に暮らして初めて知ったことだけれど、彼女はおそらく他人が思っているよりも随分と活動的だった。活動的と言っても、何もスポーツやアクティビティをするというわけではなく、言うなれば風情がある、という方向で。
 彼女は花を見るのが好きだ。春には桜や藤に菜の花。夏には紫陽花に向日葵に睡蓮。秋には秋桜や山茶花、もちろん鮮やかな紅葉も。冬は、おそらく椿だろうか。俺はいつも彼女に連れられるだけだから、もうしばらく立たないと正解はわからないけれど。花だけじゃない、春の鳥の喜びの歌声、夏のくらりとくる日差しや涼しげな川のせせらぎ、にぎやかな秋の虫の声も。子供のようにはしゃぐ日もあれば、静かな微笑みを浮かべてそれらを愛でる日もある。その両極端な姿を俺は好ましく思っていた。
 サクサクと小気味いい音を立ててチョコレートを食べる彼女の姿をぼんやりと眺める。クッキーの上にでもチョコレートが塗されているんだろうか。視線がぱちりと合って、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「……もう少し寒くなったら、何がしたい?」
「もう少し寒くなったら?そうだなあ……」
 唐突な俺の質問に、彼女がぱちりぱちりと目を瞬かせる。それからふらりと視線を泳がせ、皿の上のチョコレートを指で摘んでためすがめすしてから、彼女はゆっくりと唇を開いた。
「今日みたいな日に街を歩きたい、かなあ」
「ええと、それって……」
「もう少し寒くなったら、雨は雪になるでしょう。そして街は白く彩られる。音も降り積もった雪に吸い込まれて……、ね?よく知った場所がまるで違った場所みたい。そこを君と歩くのは、きっと楽しいよ」
 ふんわりと彼女の目尻が下げられ、口元に柔らかな笑みが浮かぶ。寄り添う月を思わせるその静けさは、それにね、と彼女が続けた言葉に霧散した。
「それが終わったら雪だるまを作りたいな。雪うさぎも。かまくらは流石に無理かな?」
 声色だけは穏やかに、だけど瞳をきらきらと輝かせ、白い歯を見せて笑う姿は子供染みている。
「最初から俺も頭数に入ってるんだ」
「え、だって付き合ってくれるでしょう?」
「まあ、子供みたいに時間を忘れて風邪を引かれても困るからなあ」
「あはは、否定できない」
 けらけらと笑い声をあげて、彼女は摘んだチョコレートを口の中に放り込む。ホワイトチョコレートの白がいやに目についた。今年は雪は降るだろうか。降らなかったら、彼女と一緒に逆さてるてるでも吊るしてみてもいいかもしれない。雪が降っても降らなくても、今年の冬はいつもよりもずっと美しいものに違いない。彼女と過ごせばいつもの何気ない景色が何倍にも鮮やかに色づくことを、俺はもう知っているから。

11/16/2022, 4:35:28 PM

 手を離した瞬間に、なんだか泣きたくなった。じわり。滲んでくる水分を堪えようと、ぐっとこめかみに力を入れる。ひくりと口元が引き攣る。それをめざとく見つけた彼女が、悪戯っぽく瞳を瞬かせた。
「なあに?やっぱり寂しくなっちゃった?」
「全然、まったく、これっぽっちも」
「おやまあ、ひどいなあ。私は寂しいけどなあ」
 柔らかに緩められた唇が紡ぐ言葉はいつも通りに優しくて甘い。彼女が入れる砂糖三杯入りのミルクティーを思わせるくらいに、私に向けてのそれはいつだってそうだった。
「まあ、とはいえ今生の別れというわけでもなし。そろそろ私は行くとしようか。私がいないからって、ふらふら遊んで帰っちゃダメだよ、いいね?」
白く長い指先がくしゃりと前髪を撫ぜて離れていく。自然と目がそこに吸い寄せられる。私はその指の温かさを、柔らかさを知っている。
 ぱしり。
「……ええと、どうした?何か言い忘れたことでもあった?」
 少しばかり目を開いて、困惑したように彼女が呟く。気づけば、私の手は彼女の指先を捕まえていた。
「……連絡、するから」
「ああ、うん。そうだね……?」
「無理はしすぎないで。器用も親切もいいけど、自分の限界を超えても気付かないのはただの馬鹿」
「あはは、肝に銘じておくよ」
「…………私のこと、忘れないで」
 パッと開いた瞳孔が、ゆるりと緩められていく。二、三度うろ、と視線を惑わせた彼女は、やがて私に視線を合わすと頬を持ち上げて花笑んだ。
「もちろん。どこにいっても、世界がひっくり返ったって忘れない。君は私の特別だもの」
 その笑顔をじっと網膜に焼き付ける。胸の奥にころんと転がった彼女の言葉が、じんわりと熱を持って眩しく光っている。
「それにしても突然どうしたの?あれか、旅路に出る私への出血大サービスってやつかな?」
「あんたの声も、指も、体温も、しばらくなくなるんだって思った。そうしたら、体が勝手に動いてた。……寂しいとか、柄じゃないけど」
「そう。そっか。……そっかあ」
 息をついて瞬く彼女の前で、どうにも居がたくて身じろぎをする。視線を落とせば、風に飛ばされた木の葉が石にもたれて傾いている。彼女の声は相変わらず呆れるほどに甘い。
 彼女は私に甘い。いつも通りに、いつだって。
「すぐだよ、きっと。便りも出すし、空もつながっているし。だから大丈夫。すぐだよ、きっと」
 ささやく彼女の長い髪を、春風が優しく揺らしていた。