秋恋
なんと読むのだろうか。あきこい、しゅうれん?
私は恋愛が苦手なので、これはこれは縁遠い言葉だ。
調べたらいくつか秋恋というタイトルの曲がヒットしたので少しだけ聞いてみることにした。
バラード2曲、演歌1曲、当たり前だけど、どちらもラブソングだった。
その中の1曲で秋を切ない季節と歌っているのが印象的だった。
誰かを本気で好きになって愛することが出来るのは素敵なことだと思う。
私にも経験がないわけではないけれど、今思えば本当の恋なんてまだ経験したことないんじゃないかな。
秋恋は夏恋より落ち着いた印象。
まだ昼間は暑いけど、徐々に秋は始まっている。
もしもまだ、私に恋愛をするチャンスを与えられるなら、その人のこと大事にしたい。
大事にしたいから、今は自分自身を大事にしたい。
いつか来るかもしれない秋恋に備えて修練を積んでおこう。
大事にしたい
私は知っている。自分の心身を大切にすることが出来ない人間は本当の意味で周りの人達を大事にすることなど出来ないということを。
お人よしや自己犠牲は場合によって悪となる。
人は人と助け合いながら生きていく必要があるけれど、基本自分で出来ることは自分でするべきだと思う。
それを考えず、むやみやたらに人を助けたり、手を貸すことは相手の成長の機会を奪うばかりか依存させ堕落に導く。
相手の成長を願う心の働きが一つの愛の形なら人を依存させるまで助ける行為は、もはや愛から生まれた行動ではないのだ。
大事にしたい。
自分だけでなく周りの人も。世界中の人も。
そう思うなら、まずは自分を大事にすべきだ。
大事にするということは何も自分を甘やかすことじゃない。
心と身体を正常な状態に保つことだ。
それに気づけた私は自分を大事にしたい。
そして、自分を大事にする過程で学んだ知識や経験で、今度は周りの人を大事にするんだ。
時間よ止まれ
もしも時間が止まって私だけが動ける状態になったら?
何をしよう?
止まった時間を散歩してみんなが何をしていたのか観察してみるのも面白いかもしれない。
時間でも止まらない限り、人をまじまじと観察することなんて出来ないからね。
逆に時間が止まった時、私も止まる側だったら。
いつ、どこで、どんな状態で止まっても恥ずかしくないように普段から観察されても構わない自分でありたい。
人の目を気にし過ぎるのは良くないけどね。
客観的に自分という人間を見られないのも問題があるように思うから。
時間よ止まれ
さぁ、いつでも良いから止まってみせて。
私という存在を写真を撮るようにして時間から切り取ってみて?
決して美しくはないけれど、面白い私の日常を見せてあげるから。
私という作品を一時停止して見てみませんか?
なんてね。
夜景
私は田舎暮らしだから夜景と言ったら星空を眺めることぐらい。
都会で暮らしていたら、きっと綺麗な夜景を毎日見れるんだろうな。
少し憧れる。
夜景ってなんで綺麗に見えるんだろう。
生き物が光を美しいと感じるのは、きっと習性なんだと思うけど、星空とはまた別の美しさを感じる。
そこに人の存在を感じるからだろうか。
人は人と関わりを持つことでぬくもりを感じる。
たぶん、夜景の美しさの正体は、そのぬくもりなんじゃないかと思う。
大多数の人が仕事から解放されて家族と団欒を迎える時間帯。その温もりを無意識に感じ取っているんじゃないかな。
今度、夜景を見るときは、そんなことに思いを馳せてみよう。
美しいと思う、その感性を大切にして。
花畑
花をじっくり観察したことはない。
花畑に心躍らされた経験はない。
何故だろう。
きっと花を見ることに意味を見出せていないからだ。
花を育てる経験を重ねていたら、その意味に気づくことができただろうか。
そうだ。少し面白いことを思いついた。
植物の花を育てることには抵抗があるけれど、言葉の花を育てみたらどうだろう。
言の葉に花がつく過程を観察するために心の中に畑を作るんだ。
言の葉に花がつくっていうのは、発っした言葉が現実化するって意味だと考えてもらえばいい。
よし、じゃあまずはひとつ花を育てよう。
『私は、みんなを笑顔にする人だ!』この言葉が花をつけたとしたら、その花の名前は『スマイルメイカー』。
言葉の花畑にスマイルメイカーが咲き誇る姿をイメージしよう。きっと、その花をみたら私は笑顔になれる。
そうやって言葉の花を育てていたら、きっと植物の花も魅力的に見れる自分になれる。そんな気がする。