「金木犀は高く薫るけれど、沈丁花は低く薫るね」
彼女は秋口のまだ日の高い通学路でそう語った。彼女にしては意外なことをいうものだと思った。
「君が自分自身を喩えるなら?」私はいたずらっぽく尋ねた。
「私ですかぁ~? 私はどちらかと言えば金木犀じゃないですかね~、紅白似合いませんし」
彼女は普段通り飄々とした態度で返事をした。
「気高い人ですか。なるほど」
「花言葉にかこつけて何お世辞言ってるんですか~、私がそんな上品に見えますか? 私、そんなにプライドも高くないですし血統が良い訳でもないですよ」
「そりゃ残念」
彼女のこうした自虐癖もいつもの事だった。ただ、彼女の自虐には自己欺瞞が付き纏っているように見えた。
「じゃあ、金木犀の他の花言葉は知ってる?」
「謙遜、でしたっけ」
「間違いじゃない。正解は真実と、陶酔」
「初めて知りました」
「で、他の意味がどうしたんです?」
「説明しようとしたけれど長くなりそうだから辞めちゃった」
「いいじゃないですか~、教えてくれたって」
「“釣果を得ることが重要じゃないのです。大事なのはいかにして釣るかってこと” なんでしょ?」
「いじわるですねえ」
「いやあ、どうかな」
彼女にはまだ隠している金木犀の花言葉があった。それは初恋。認識したら関係が壊れてしまう気がして伝えたかった。一方で伝えた花言葉には伝わらないであろうメッセージを込めておいた。真実には、「君が目を背けている」という形容が隠れていることを、陶酔には頭に自己という熟語がつくことを隠した。内容までは当てずとも、含意に気づいて欲しかった。
彼女の一般的な評価は無気力で怠惰だが策士、というものだった。一応その評価は間違ってないと言えた。しかし、正しくは無かった。彼女は周囲が思う以上に敏感だった。さっきのような発言や、人間との関わり方の端々から敏感さの剥片が見て取れた。とりわけ人間関係においては他者を直視することと自己開示を恐れて、人をずっと煙に巻いて逃げ続けている気がした。それは自信のなさから来るものかもしれないが、一方では自己陶酔だったし、一方では自己憐憫だった。私はそんな彼女を傲慢にも救いたいと思ってしまった。惚れてしまったと片づけるには大きすぎる事象を私は意識的に無視した。この込み入った私の感情は歩くほどに爽やぐ、どこまでも続く青空のせいで、より重く、はっきりと、私の胸に圧し掛かった。
「私と踊りませんか?」
そう朝練に行く電車の中で隣に座って言った彼女の口調であるとか表情だとかを私は今も覚えている。彼女の口調は少し歯切れが悪かったし、頬はいつもより茜がさしている気もした。
「私と……踊りませんか」
彼女は繰り返した。彼女の方を向いただけで返答をしていなかったことを私は思い出した。
「いいよ」
私の返答を聞くと彼女は頬を緩めて笑いながら
「ありがとうございます」と、言った。朝日が彼女の髪を極端に白くしていた。言い終えると彼女は話しかけてきた時から差し出していたチラシを私に押し付けて、鞄を抱えて目を背け気味にした姿勢で寝たふりを始めた。
「私ちょっと寝不足なので寝ますね。府中に着いたら起こしてください」
「分倍河原発車のタイミングで起こすね」
「わかりました」
彼女が押し付けてきた校内社交ダンス大会のチラシはやや時代錯誤なものに見えた。そして、大会自体は私にとって感興をそそるものではなかった。ただ彼女が私を選んだということの方に意味がある予感がした。きっと彼女は何か策を仕掛けてきている気がした。その策にわざと乗って策の相貌を明らめたいと思った。多摩川橋梁を渡る音と振動が不思議と心地よかった。