青沼 梓

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「私と踊りませんか?」
そう朝練に行く電車の中で隣に座って言った彼女の口調であるとか表情だとかを私は今も覚えている。彼女の口調は少し歯切れが悪かったし、頬はいつもより茜がさしている気もした。
「私と……踊りませんか」
彼女は繰り返した。彼女の方を向いただけで返答をしていなかったことを私は思い出した。
「いいよ」
私の返答を聞くと彼女は頬を緩めて笑いながら
「ありがとうございます」と、言った。朝日が彼女の髪を極端に白くしていた。言い終えると彼女は話しかけてきた時から差し出していたチラシを私に押し付けて、鞄を抱えて目を背け気味にした姿勢で寝たふりを始めた。
「私ちょっと寝不足なので寝ますね。府中に着いたら起こしてください」
「分倍河原発車のタイミングで起こすね」
「わかりました」
彼女が押し付けてきた校内社交ダンス大会のチラシはやや時代錯誤なものに見えた。そして、大会自体は私にとって感興をそそるものではなかった。ただ彼女が私を選んだということの方に意味がある予感がした。きっと彼女は何か策を仕掛けてきている気がした。その策にわざと乗って策の相貌を明らめたいと思った。多摩川橋梁を渡る音と振動が不思議と心地よかった。

10/4/2024, 11:26:02 AM