「月が綺麗ですね」という言葉をいつからかチラチラ見るようになった。元は夏目漱石が日本人なら直接的な物言いではなくこー言ったらいいでしょ。と書き記したことで始まったこの言い方。
確かに日本人は直接的な物言いはしない。海外に出てみるとびっくりするほど直接的にはっきりと相手に伝えている。
私もド直球に相手に伝えるのは抵抗があるし難しい。
でも、直球に言うのが無理だから、と遠回しに伝えると、
かえってしっかり伝わらなかったり、誤解されたり…
もしかしたら変なやつ認定されるかもしれない。
相手にしっかり気持ちを伝えよう!ってよく小学生の時とか習ったような気がするが、これって実は大きくなるにつれハードルが上がっているのだなぁ、とようやく最近気づいた。近頃は自分の考えや気持ちを前に出さず、相手の意見に合わせたり、納得いってなくてもとりあえず合わせておこう、と考えることの方が多くなったような気がする。
小学生の時って先生に言われたこと=正解って考えるから、実際言われたらなんでも出来るんだよね…
あーあ…もっとしっかり自分の気持ちを伝えられるようになりたいなぁ…
たまーに喧嘩したり、食い違ったり。長い間一緒に過ごしていると色々なことが起こったが、それでもずっと「大好きだよ」と言ってくれ。少しのわがままなら苦笑いしながら聞いて叶えてくれ。お互いに協力して問題を解決したり。
人生を振り返るとほぼ全ての時間を一緒に過ごしている。
全ての思い出に笑顔が残っている。
こんなに私を大切にしてくれている人に、私は未だに「ありがとう、大好きだよ」と面と向かって言えない。
何度も何度も言おうと思ったけど、結局言えずにここまで来てしまった。
いつのまにか、分担していた家事とかも全て任せるようになってしまった。それが当たり前だと思ってしまっていて。
それでも私に海外に旅立つ、言葉や文化に触れる機会を作ってくれ。朝から晩まで働いてくれ。絶対疲れているのに私の前では強がって笑顔でいてくれて。実際海外に旅立って、全てを自分でやらないといけないとなった時、あなたに感謝と申し訳なさでいっぱいになりました。
お父さん、お母さん。
生意気でごめんなさい。意味のわからないところで反抗してごめんなさい。「ありがとう、ごめんね、大好きだよ」が言えなくてごめんなさい。
ずっと大切に育ててくれたのにその恩返しが未だにできていない。今ここで言うことじゃないことは分かっているし、いつかちゃんと面と向かって言うから、今日はここで許してください。
私をここまで育ててくれてありがとう。何回も反抗して喧嘩したけど、その度に素直に謝れなくてごめん。「大好き」と言ってくれた時、「私も」といえなくてごめん。あなたたちが大切に育ててくれたこの命を、後悔なく終われるよう一つ一つの瞬間を大切に生きていこうと思います。
本当にありがとう。『大好きな人』達。
そういえば昨日はひなまつりだったのか…
小さい頃は行事がある毎に家族や友達とはしゃいでワイワイ楽しく過ごしていたけれど、高校生になった頃あたりから過ぎてから気づくようになってしまった。あ、昨日は○○だったのか…って。行事ごと以外でもそうだ。
大切な時間っていつの間にか過ぎていて、過ぎてから遅いタイミングで気づく。「今を大切にしよう」とよく言うし、それを聞いた時は一つ一つ大切にしようと思えるが、いつの間にかその考えも忘れてしまっていて、こういうふとした時に気づく。
過ぎてから後悔することが本当に多くなった。
もっとこうしておけば良かった、なんであの時こうしなかった、あの時もっと楽しんでおけばよかった、とか。
「今を大切に」と大人はよく言うが、1番「今」を大切に、後悔せず楽しんでいるのは子どもだけなのかもしれない。
まずまず希望とは。希望の使い方は人それぞれだと思う。
例えばこの言葉を人に対して使う人がいたり、その道に進むための最後の手段にこの言葉を使う人もいる。「これが最後のたった1つの希望だ」…なんて言葉をよくアニメで聞く。
誰しも1つは持っているであろう「希望」
希望っていい響きだし、今日のテーマ「たった1つの希望」というのもとても良い言葉…だと思いはする。
思いはする…が、多くの偉人は言う。「希望と絶望は表裏一体」と。確かにその通りだ。
はなから希望なんて持たなければ絶望なんてするはずがない。希望なんてものを持たなければ酷く深く落ち込まず、平和に過ごせるのだろう。
そう思っていても人間は希望を持とうとする。どんな絶望の境地に立っていても希望を持つということを諦めない。辛抱強く希望を持ち続ける。
それが人間らしさなのかなとも思ったり。
絶望というものはいつどこから襲ってくるか分からない。
急な自然災害や戦争、事故や大怪我など。希望にも種類が幾つかあるように、絶望も多種多様である。
希望が存在する限り、絶望は存在し続ける。
絶望が存在する限り、希望は光り輝き続ける。
果たして私は人生で何度希望を追い求め、何度絶望を味わうのだろう。
欲望というのは少し難しいものだと私は思う。欲望には種類が様々あり、○○が欲しい、○○のようになりたい、○○だったら良かったのに、もし○○だったら…など。
色々な形の欲望があるが、私はこの欲望というものが恐ろしいものだとも思う。欲望を追い求めるのは自分を閉じ込めていってしまうと思うから。○○だったら良かったのに、なんてよくあることだが、それは例えば他人と自分を比べてしまったり、後悔の始まりだったりする。あの子はこうなのに私はこうだ、などと自分への自信をなくしたり、もしこうだったらこうだっただろうに…と、ないものねだりが始まる。
だが逆に考えてみよう。もし人間に欲望というものがなければ。人間は生きていくことが果たして可能なのだろうか。
人が誰しも持ったことのある「夢」これもまた欲望からできたものだ。夢でなくても、人間の行動源は何事も欲望から始まる。お腹が空いたから食べる、眠たいから寝る、など。
人間の良心もそう。困っている人を助けたいから助ける。世界のために行動できるような人になりたいから勉強する…
人間から欲望が消えると、人間は人間として生きることが可能なのだろうか…とも思ったり。ただただ命令された通りに動く人形のようになってしまうのか。はたまたぼーっと何もせずただただ生きて死んでいく人生を送るのか。
結局、人間は欲望がなければ人生を楽しく、豊かに過ごせないのだろう。